【解説:信長の戦い】大河内城の戦い(1569、三重県松阪市大河内町) 伊勢の国司・北畠氏を降す!

 織田信長が伊勢国を平定することになった「大河内(おかわち)城の戦い」。織田軍のオールスター(?)が参加したこの戦いですが、一体どのようなものだったのでしょう。

戦いには苦戦したものの、外交では勝ったみたいですよ。


合戦の背景

 大河内城は、いわゆる南伊勢における戦いでした。その前に、北伊勢の攻略から見ていくことにしましょう。

北伊勢の攻略

 まずは当時、伊勢にあった勢力について押さえます。下記のように北と南、大きく2つの地域に分けることができます。

  • 【北八郡】長野氏・神戸(かんべ)氏・関氏といった有力氏族が弱小国人を従わせている地域
  • 【南五郡】伊勢国司・北畠氏(北畠具房/ともふさと父・具教/とものり)が支配する地域

 南五郡の北畠氏は伊勢国司であると同時に、強力な戦国大名でした。うーん、強そう。それに対して北八郡は、あんまり強そうに見えない……ちゃちゃっといけそうな気がします。

 『勢州軍記』という史料によると、信長は永禄10年(1567)に滝川一益を北伊勢に派遣し、最初の伊勢侵攻を開始。また、同年には信長自身が北伊勢に攻め込んで小領主たちを降参させ、楠城(現四日市市)や高岡城(現鈴鹿市)を攻撃したといいます。

 やはり、北から攻めたのですね。

 永禄11年(1568)の2月には、信長はまたしても北伊勢に侵攻しています。今度のターゲットは、有力氏族の長野・神戸・関氏たち。侵攻といっても、できるだけ講和の道を探るという作戦でした。

  • 神戸氏:三男・三七郎(のちの信孝)を神戸具盛(とももり)の養子にする
  • 長野氏:弟・信良(のちの信包/のぶかね)を長野家の当主にする

 このような条件を飲ませた信長は、早々に北伊勢を掌中に収めることに成功していたのです。

北畠具教の弟による寝返り

 同年9月には、上洛を実現させている信長。しかし依然として、北畠氏は信長に従う姿勢を見せませんでした。

 北畠氏討伐の機会をうかがう信長のもとに、チャンスが巡ってきたのは永禄12年(1569)5月のこと。北畠具教の実弟である、木造城主・木造具政(こつくり・ともまさ)が誼(よしみ)を通じてきたのです。

 具教は寝返った木造城を包囲して攻撃を開始しますが、なかなか落とせずにいました。

合戦の経過・結果

 同年8月20日、ついに信長が岐阜を出陣。このとき従えた兵の数は、7~10万とも言われます。幅がありますが、総力を挙げた戦いであることはわかりますね。信長軍はこの日のうちに伊勢に入り、23日には木造城に着陣しています。

戦場となった大河内城(現在の三重県松阪市大河内町城山)の位置など。色が濃い部分は伊勢国

信長、総力戦で挑む

 26日に木造城を発つと、信長は木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)に、支城の一つである阿坂(あざか)城(現松阪市)を攻めさせます。阿坂城はその日のうちに開城。他にも支城はいくつもありましたが、信長軍はそれらに目もくれず、北畠父子が籠る大河内城(現松阪市)を目指しました。

 28日、信長軍は大河内城の四方を取り囲みます。『信長公記』によると、各方面に配置されたメンバーは下記の通りです。なかなかのオールスターですね!

  • 【東】柴田勝家・森可成・佐々成政・不破光治など
  • 【西】佐久間信盛・木下藤吉郎・氏家直元・安藤守就など
  • 【南】織田信包・滝川一益・丹羽長秀・稲葉良通・池田恒興など
  • 【北】蜂屋頼隆・坂井政尚・斎藤新五郎・浅井氏の援軍など

 一方、信長の本陣は東の山に置かれ、馬廻衆・小姓衆・弓衆・鉄砲衆たちがしっかりと守りを固めていました。鹿垣を二重三重にめぐらし、見張りもちゃんと付けるなどして、大河内城をめちゃくちゃ包囲します。これは大河内城が複雑な地形の中にあったために、攻めにくかったことが考えられます。

夜討ちの失敗

 このまま長期戦に持ち込むのかと思いきや、さほど日の経っていない9月8日、信長は丹羽長秀・池田恒興・稲葉良通に夜討ちの命令を出します。三将に馬廻を付け、三手に分かれて西搦手口より攻撃させたのです。

 ところが不運にも雨が降ってきて、鉄砲が使えなくなるというハプニングが……。さらに夜討ちに気づいた敵方からの一斉射撃によって、信長軍には多くの死者が出てしまいました。

兵糧攻め~和睦

 こうして長期戦の覚悟を決めたのでしょうか。翌9日、信長は滝川一益に命じて多芸(たぎ)城とその周辺を焼き払わせ、住人たちを大河内城内へと追いやりました。いわゆる兵糧攻めですね。そして10月3日、信長と北畠氏は和睦し、大河内城は開城します。

 ところが兵糧攻めの開始から和睦に至るまで、史料によって書いてあることがバラバラなのです。信長方の残した『信長公記』によると、兵糧攻めが功を奏し、北畠氏から和睦を申し入れたということになっています。

 一方、寛永年間に伊勢側の視点で書かれた『勢州軍記』によると、兵糧攻めはさほどダメージにはならなかったとか。うーむ、どちらが正しいのでしょうか。戦闘においても信長方が敗戦を繰り返したとされています。この点、中立の立場から書かれた『細川両家記』や『朝倉記』によると、やはり信長軍は苦戦していたことは確かなようです。

戦後

 信長にとって、一筋縄ではいかなかった大河内城の戦い。とはいっても、和睦の条件は圧倒的に信長に有利なものでした。

  • 大河内城は信長に譲り、北畠親子は他の城に移る
  • 信長の二男・茶箋丸(のちの信雄/のぶかつ)を北畠家の養嗣子とする

 上記の条件を飲んだ北畠具教・具房親子は、笠木城(現多気町)・坂内(さかない)城(現松阪市)に移りました。

 天正3年(1575)には北畠氏に圧力をかけ、信雄に家督を譲らせます。そして翌年には、具教と一族・家臣などを一網打尽にして謀殺(三瀬の変)したのでした。おおお……怖い、怖い。

まとめ

 大河内城の戦いは、上洛後の信長と南伊勢・北畠氏との間に起こった戦いです。信長軍は総力戦で臨んだ大河内城の戦いでしたが、意外と苦戦したものとみられます。

 しかし和睦の条件はというと、圧倒的に信長に有利なもの。その後信長は、北畠氏を滅亡にまで追い込んだのでした。


【主な参考文献】
  • 谷口克広『織田信長合戦全録 -桶狭間から本能寺まで』(中公新書、2002年)
  • 谷口克広『信長の天下布武への道』(吉川弘文館、2006年)
  • 太田牛一『現代語訳 信長公記』(新人物文庫、2013年)
  • 三重県 「大河内城の戦いと信長の伊勢進攻」

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  この記事を書いた人
犬福チワワ さん
日本文化・日本史を得意とする鎌倉在住のWebライター。 都内の大学を卒業後、上場企業の経理部門・税理士法人に勤務するも、体調を崩して離職。 療養中にWebライティングと出会う。 趣味はお笑いを見ることと、チワワを愛(め)でること。

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