正解!
ざんねん…
答えは「2度にわたり、モンゴル帝国の侵攻を退けた人」
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北条時宗は鎌倉時代中期に「執権」として鎌倉幕府の最高権力者だった人物で、日本史上最大の国難と言われる2度の元寇(蒙古襲来)を退けたことで知られています。 時宗は建長3年(1251)に北条得宗家の5代執権・北条時頼の子として生まれました。3歳上の兄・時輔がいましたが、正室の子だった時宗が得宗家の後継者として育てられることになります。 時頼は康元元年(1256)に執権職を辞して出家しますが、時宗が幼かったため、一族の北条長時が中継ぎとして執権となりました。時宗は、北条一門屈指の識見者である北条実時から、将来の執権にふさわしいリーダー教育を叩き込まれます。父の時頼、執権の長時が相次いで死去した後、一族の長老だった北条政村が執権を引き継ぎ、時宗は14歳にしてナンバー2の連署に就きました。 そのころ、大陸ではモンゴル帝国が東アジアからヨーロッパまで領土を拡大し、世界最大の国家となっていました。時の皇帝・クビライは、朝鮮半島の高麗を通じて日本に服従を求めるようになります。国家的一大事の時こそ、得宗家の執権を立てるべきだとして、文永5年(1268)に時宗が執権に就任します。さらに、国難に一致団結して取り組むため、反乱分子だった一族の名越教時・時章と異母兄の時輔を粛清しました。 モンゴル帝国は文永11年(1274)に大軍で北九州へと攻め込んできました。これが1度目の元寇「文永の役」です。時宗は御家人らに徹底抗戦を命じ、蒙古軍の集団戦法に苦戦しながら、暴風雨にも助けられて何とか退けることができました。 翌年、モンゴル帝国から使者がやって来ましたが、時宗は使者を処刑することで対決姿勢を鮮明にします。そして、蒙古軍再襲来に備えて博多湾に長大な防塁を築かせ、幕府が主導する形で御家人たちの臨戦態勢を強化しました。 2度目の元寇「弘安の役」は弘安4年(1281)で、蒙古軍は文永の役よりもさらに大軍で攻め込んできたのです。ただ、強固な防衛体制を築いていた幕府軍の前に、なかなか上陸作戦を決行できずにいました。折しも暴風雨が吹き荒れ、海上にいた蒙古軍の船団が大きな被害を受け、撤退を余儀なくされます。後の世に「神風が吹いた」と言われた幕府軍の勝利でした。 2度の元寇を乗り切った時宗ですが、御家人たちに十分な恩賞を与えることができず、3度目の元寇にも備えなければならないという難しいかじ取りに追われます。そうした心労もあってか、弘安7年(1284)に34歳で生涯を閉じたのでした。
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