1584年の小牧・長久手の戦いのとき、秀吉は敵将の榊原康政(徳川家康の重臣)に激怒したといいます。さて、榊原康政は何をしたのでしょうか?
( 正解率は 56 % )正解!
ざんねん…
答えは「秀吉を非難する文書をばらまいた」
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本能寺の変の2年後の天正12(1584)年、織田信長の次男・信雄と与した徳川家康と、羽柴秀吉との間で「小牧・長久手の戦い」が勃発します。
信長亡き後、秀吉はその天下統一事業を主体となって引き継ぎましたが、この頃はまだ織田家家臣の一人に過ぎませんでした。にもかかわらず、秀吉は主家である織田家の、しかも信長の次男と戦うことになってしまったわけです。
この状況に目をつけた榊原康政は、敵対する秀吉の軍の士気を下げるべく、「信長への大恩を忘れてその子供を殺そうとしている、そんな秀吉に味方して良いのか!」といったような内容の文書を、立て札にして掲げたり、秀吉に味方する者達に送りつけたりしました。
康政の痛烈な批判に秀吉は大層怒りました。康政を討ち取った者に恩賞の約束もするほど、その怒りはすさまじかったようです。
この逸話は江戸時代に成立した『藩翰譜』に記されています。要するに康政は秀吉が織田家を乗っ取ろうとしていることを非難したわけですね。ちなみに、この後、天下人となった秀吉とは和解したとか。。
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