正解!
ざんねん…
答えは「外国への関心が高かった」
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織田信長は安土桃山時代の武将で、足利将軍を立てて京都への上洛を果たし、中央政権で実権を握った後は、敵対する一向一揆や大名たちと戦いながら天下統一に向けて突き進みましたが、統一目前で謀反によって非業の死を遂げた人物です。
信長は、天文3年(1534)に尾張国(愛知県)に生まれ、子供の時は吉法師と名乗っていました。父の織田信秀の死により、18歳で家督を継ぎますが、若いころの信長は評判があまりよくありませんでした。異様な姿をして城下に現れ、粗暴で下品な振る舞いも多かったことから「大うつけ」と陰口を叩かれていたほどです。弟の信行をはじめとする対抗勢力も多かったのですが、徐々に鎮圧し、尾張一国を手中に収めていきます。
信長が世に名乗りを上げたのは、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いでした。大軍を率いて尾張侵攻を目指していた今川義元を、少数の兵力で打ち破ったのです。その後、今川家から独立した三河国(愛知県)の徳川家康と同盟を結び、美濃国(岐阜県)を掌握します。
そんな信長のもとに、将軍後継者の足利義昭が上洛の軍を起こしてほしいと頼ってきました。信長は、義昭を旗頭にして大軍を上洛させることに成功します。ただ信長の周りは、大坂(石山)本願寺の一向一揆をはじめ、朝倉・浅井氏や比叡山、三好三人衆といった敵だらけでした。さらに足利義昭も反旗をひるがえし、武田信玄までもが敵対の構えを見せるなど四面楚歌の状況が続いていきます。
信長は、時には武力でねじ伏せ、時には朝廷(天皇)の権威を利用し、各個撃破にあたりながら、自分の勢力拡大を図っていきました。そして将軍義昭を京都から追放することで、足利幕府を滅亡に追い込み、名実ともに京都の支配者となるのです。なお、信長は将軍を最初から敵視し、つぶそうとしたわけではありません。
また、好奇心旺盛で異国への関心が高く、西洋の科学技術に関心を持ったり、アフリカ出身の黒人に興味を示して側近にしたことはよく知られています。その他にも、南蛮とは別に、中国に対する強い憧れを持っていたという説もあるほどです。
信長の天下統一に欠かせないのが家臣たちで、父の代からの重臣だった柴田勝家や佐久間信盛らのほか、最下層の身分からのし上がった羽柴秀吉(豊臣秀吉)、新参者だった明智光秀といった優秀な人材を抜擢し、古参の家臣たちと競わせてきました。
信長は人使いが上手だった一方で、長年仕えた家臣でも容赦なく切り捨てる非情な面も持っていました。天正10年(1582)、明智光秀が謀反を決行した本能寺の変で、信長は討たれてしまったのです。享年49歳でした。
織田信長の近くで仕えていた太田牛一が書いた信長の一代記『信長公記』には、現在にも伝わる有名なエピソードがいくつも記されています。舅(しゅうと)である斎藤道三との対面に正装で現れて度肝を抜いたこと、桶狭間の戦いの前に「敦盛」の舞を舞ったこと、光秀が謀反人と聞き「是非に及ばず」と答えたことなど、信長の魅力あふれる人物像が目に浮かんできます。
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