【麒麟がくる】第40回「松永久秀の平蜘蛛」レビューと解説

松永久秀は爆死しませんでしたね。近年明らかになった新説を多く採用する傾向があり、創作とわかっている逸話は使わないのかもしれない。しかし創作とはいえ爆死エンドが見たい……。

そう思っていましたが、爆死と同じくらい衝撃的な最期でした。松永久秀は、明智光秀にとって人生を大きく変えるきっかけになった人物でした。

無能扱いの柴田勝家

久秀の描き方といい、今まで私たちが何度もなぞってきた信長周辺の人物の描かれ方とはちょっと違うのが「麒麟がくる」です。それはやはり、この作品が光秀の視点で描かれているからなのでしょう。

今回ちょっと驚きだったのが、久秀が柴田勝家の名を出し、無能扱いしたことです(逆に、のちに信長にクビにされる佐久間信盛を、光秀は無能とは思っていない描かれ方であるのも意外)。

天正5(1577)年9月、上杉謙信との戦い(手取川の戦い)にて、信長は勝家を総大将として加賀へ出陣させました。羽柴秀吉も加わっていました。作中でも以前から関係がよくなさそうでしたが、この戦中もふたりは意見が合わず、秀吉は許可を得ずに陣を解いて離脱してしまったのです。激怒した信長をなだめる家臣たちがどれほど大変な思いをしたかは想像に難くありません。

この件について触れ、「秀吉の怒りはわかる」と言う久秀。柴田ごときが総大将なんて怒るのも無理はない、と。事実、手取川の戦いは上杉軍の勝利に終わっています。

信長は能力重視とはいうものの、結局は譜代の家臣や家柄を重視した人事を行っている。久秀が欲する大和も、代々その地にあったというだけの筒井順慶に与えてしまいました。

信長は、久秀にはどこか別の国を与えるつもりで、厚遇してやっている気でいたのでしょう。しかし、仮に久秀がその人事を知っていたとしても、久秀の答えは変わらなかったような気がします。

ものの美しさ、そして自分がつけたものの値打ちを重視する久秀のこと。「大和は美しい」と言った久秀は、大和以外には「うん」と言わなかったのではないでしょうか。

また、平蜘蛛を持ち出して「これはわしじゃ!天下一の名物なのじゃ!」と言う久秀の言葉を聞くと、「天下一の名物」という自負があるこの久秀を評価せず、家柄だけで筒井順慶を選んだ信長こそ「無能」であると、信長の価値をそう断じたのだと感じました。


松永久秀の仕掛け

伊呂波太夫を介して光秀を呼んだ久秀は、自分の命の次に大切にしている平蜘蛛の茶釜を見せ、「十兵衛、そなたになら渡してもよい」と言います。また、信長にだけは意地でも渡したくないと。

光秀は「平蜘蛛などはいらない」とつっぱね、あなたと戦いたくはない、命懸けて信長様を説得するから信長様を裏切ってはならないと強く言います。主君への裏切りは絶対にしてはならないことという光秀があと数回でその裏切りにたどり着くのですから、一体どれほどの理由があったのか……。

しかし結局、久秀の決断を覆すことはできませんでした。

この光秀と久秀との出会いを思い出させるような酒の席で、久秀はひとつの爆弾を仕掛けました。秀吉の密偵がつけてきていることにはきっと気づいていたはずです。

南無三宝!久秀最期

天正5年10月10日、松永久秀は信貴山城で自害しました。並べた名物に火をかけた久秀は「この箱に首を入れて名物とともに焼きはらえ」と命じますが、そこに平蜘蛛はありません。

「げに何事も一炊の夢」とは唐代の沈既済の『枕中記』の故事で、唐の盧生が楚国へ向かう途中に見た夢の中で栄枯盛衰を体験するも、目覚めてみれば炊きかけの粟飯が炊きあがってもいないわずかな時間のことだった、という「人生の栄華は儚い」ことのたとえです。

人生は儚い。無常な世の中で、帰蝶が言うように親しかった人たちは戦で次々死んでいく。そして儚さは物も同じこと。その儚さを知っているから、久秀は惜しむことなく名物に火をつけられたのでしょう。

奇しくも、久秀が亡くなったのは奈良の大仏殿が焼かれたのと同じ日でした。『信長公記』はそのことに触れ、因果応報なのだとしています。
久秀を討ったのは、神の使いである鹿の角の前立て(兜)の織田信忠。これは春日明神のなせる業であると人々は言った、とあります。「神仏を恐れぬ」久秀が受けた報いととれますが、「麒麟がくる」の久秀はそうではありません。

第34回「焼討の代償」で、久秀は信長の比叡山焼き討ちを見て、「神仏をあそこまで焼き滅ぼすほどの図太さはわしにはない。あれば天下をとっていた」と言いました。また、「大和が好きだ」「大和は美しい」と。そして、久秀の最期の言葉は「南無三宝」でした。

神仏を恐れぬ者が最後に仏法僧の三宝に呼び掛けて仏の救いを求めるとは思えません。再評価が進んだ新しい久秀像でした。




孤独の信長

安土城で嗚咽をもらす信長は、なぜ泣いているのか。久秀が死んだことか、それとも名物がめちゃくちゃに焼けてしまったことか、はたまた別のことか。それはもはや帰蝶にすらわかりません。

帰蝶は「何かを怖がっておられる」と言います。日の本一高い富士の山には神仏が宿っていて、そこに登った者は祟りを受けるらしい。信長は今や足利将軍と同じ右大将に任ぜられ、「(武士としては)天下一高い山」に登ってしまったと例える帰蝶は、信長をけしかけた自分もまた祟りを受けるかもしれないと憂いています。

「私はそろそろこの山を下りようと思うのじゃ」と一抜け宣言をする帰蝶。これからは美濃の鷺山の麓の小さな館で暮らすそうです。穏やかな世になったら渋くて美味しい茶を飲もうと別れのやりとりをしている最中に信長が登場。自分から離れる帰蝶に恨みごとを言うも、帰蝶の決意は変わりません。

そして信頼する光秀は、初めての嘘をつきました。平蜘蛛釜を誰が持っているのか知らない。久秀とはその話をしなかった、と。

だだっ広い240畳の大広間で信長は孤独でした。母のような帰蝶が離れ、帝も離れ、久秀は謀反の末死に、光秀は嘘をついた。

先ほど触れた「焼討の代償」で、久秀はこんなことも言っていました。「道を教える者を持たぬ者は闇を生きることになる」。光秀謀反への伏線かと思いましたが、信長にもかかっていました。

天下一高い山に登ってしまった信長は太陽に近くなりましたが、そこには誰もいません。母のように道を示した帰蝶も離れてしまう。上へ上へと太陽を求め、帝を超えて太陽と同等になろうとする信長が「闇を生きる」とは。天下一高い場所で見る現実とはなんと皮肉なものでしょう。

久秀の仕掛け、発動

「平蜘蛛釜の行方を知っている」と答えれば楽だったのに、あとちょっとのところまで出かかって嘘をついた。光秀は楽な道を選びませんでした。

伊呂波太夫が持参した平蜘蛛釜を前に、「これは(久秀の)罠だ」と確信します。平蜘蛛釜を求める信長を裏切り、楽な道を選ばせなかったのはあの日の久秀なのだと。

伊呂波太夫は、久秀に託された言葉を伝えます。

「これほどの名物を持つ者は、持つだけの覚悟がいる。いかなる折も誇りを失わぬ者、志高き者、心美しき者。わしはその覚悟をどこかに置き忘れてしまった」
あの日久秀に仕掛けられた罠にはまってしまっていたことに気づいた光秀は狂ったように笑います。

信長か、久秀か。選択を迫られ、久秀を選んだ光秀。「知っている」と喉元まで出かかって、それでも平蜘蛛釜を「渡したくない」と思ってしまった光秀は、久秀と同様に信長を「天下一の名物を持つに値しない」「天下を任せる人物ではない」と判断したのです。

義輝暗殺計画のころから「物の値打ち」について語っていた久秀は、信長ではなく光秀こそその器だと選びました。そして光秀もそう感じた。「将軍の値打ちも人が決め、人が作っていく」とかつて久秀は言いました。

将軍と同じ地位に登った信長の値打ちも、下の者によって作られていく。今、信長はそれにふさわしくないと判断されました。ふさわしくなければ、物と同じように壊されるだけです。

将軍を頂点とする武家社会の枠組みの中で生きてきた光秀は「麒麟を連れてくるのは棟梁」という考えに固執していたところがあったのでしょうが、久秀に「お前が天下一の名物だ」と平蜘蛛釜を渡され、価値観が変わるほどの衝撃を受けたでしょう。

麒麟を連れてくるのは信長ではなく、自分なのかもしれない。あとひとつ、強力な材料が欲しかったのか、帝への拝謁を望みます。

ただ悲しいかな、上に立つ者の値打ちを決めるのは人ですが、上に立つことを選んだ時点で光秀もまた値踏みされる立場になってしまうのです。ふさわしくないと判断されれば、壊されてしまう。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 奥野高広・岩沢愿彦・校注『信長公記』(角川書店、1969年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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