【大阪府】池田城の歴史 摂津国の重要拠点にして、荒木村重台頭の舞台!
- 2021/01/15
現在の大阪市北中部と兵庫県南東部にあたる、「摂津国」。戦国史においてはなかなかスポットライトが当てられないような印象ですが、地政学上とても重要な地域として位置付けられてきました。
京・河内に接し北は丹波、西は播磨という政情不安地帯に挟まれた交通の要衝で、畿内からみると西国への防衛線としてどうしても抑えるべき拠点でもあります。
今回はそんな摂津国最大級の勢力を誇った国人・池田氏が拠った「池田城」の歴史について見てみることにしましょう!
京・河内に接し北は丹波、西は播磨という政情不安地帯に挟まれた交通の要衝で、畿内からみると西国への防衛線としてどうしても抑えるべき拠点でもあります。
今回はそんな摂津国最大級の勢力を誇った国人・池田氏が拠った「池田城」の歴史について見てみることにしましょう!
池田城とは
池田城は現在の大阪府池田市城山町に所在した平山城で、丘陵に設けられたという意味で丘城と分類されることもあります。五月山南麓の、東西方向にのびる標高約50メートルの自然丘陵を利用した城で、北側は杉ヶ谷川の流れる谷、西側は天然の断崖によってそれぞれ守られていました。
南側の地形は詳細が不明とされていますが、東側には土塁と最大幅が約25メートルにもおよぶ堀が存在したことが判明しています。
これらに区画される城の跡地は南北約100メートル・東西約90メートルで、畿内屈指の大規模な城郭であったことがうかがえますが、主郭部分からは枯山水風の庭園も設けられていました。
正確な築城年代は不明ですが、建武元年/元弘4年(1334)頃、池田教依によってこの地に城館が築かれたと伝えられています。
代々池田氏の居城となりましたが、応仁の乱では東軍に所属し、文明元年(1469)に西軍・大内政弘の攻撃により落城しています。池田城はその後もたびたび戦火にさらされ、落城と池田氏による奪還を繰り返しました。
それだけ重要な拠点であったことの証拠でもありますが、享禄4年(1531)の大物崩れ以降に防御機能のさらなる強化を企図して城の拡充が行われたと考えられています。
永禄11年(1568)には織田信長が摂津国に侵攻、その際の攻撃により池田城は落城。元亀元年(1570)には池田氏の内紛で池田二十一人衆の一人・荒木村重が中心となって城主に成り代わりました。
村重は伊丹親興・和田惟政といった他の摂津三守護を制し、元亀4年(1573)には信長に臣従する道を選びます。しかし村重はやがて信長から離反、天正6年(1578)には信長が村重攻撃のため古池田に陣を張ったことが記録されています。
この古池田が池田城の跡と考えられており、正確な時期は定かではありませんがこの前後には池田城は廃城になっていたと考えられています。
昭和43年(1968)には大阪教育大学が、平成元~4年(1989~92)には約2500平方メートルの範囲を対象にそれぞれ発掘調査が実施されました。平成12年(2000)には池田城跡公園としてオープン、やぐらを模した展望休憩所などが設けられています。
荒木村重の台頭と池田城の戦略的価値
池田城の歴史を振り返ったとき、その画期をもたらした人物の一人が荒木村重です。城だけではなく、国のありかたにまで大きく影響したため、村重についてその事績を概観しておきましょう。室町時代初期以来、一国について一名の守護ではなく分郡守護による支配体制となっていた摂津国ですが、織田信長により摂津三守護が設置されました。
そのうちの一人が池田勝正ですが、元亀元年(1570)に内紛により当主の座を追われます。そこで台頭したのが荒木村重で、この時代になって摂津は一国一大名の統治体制へと移行しました。
村重は主君である池田勝正の先代当主・池田長正の娘を妻としており、池田氏の一族という立場でしたが、主家を追い落としてやがて自身が摂津一国を支配したのはすでに述べた通りです。
村重は天正2年(1574)に伊丹城を攻略して拠点をそちらに移しています。その後、村重が信長から離反し、有岡城の戦いにおいて織田軍の攻撃を受けた時点では池田城に兵を配置していなかったとされていますが、信長自身が村重攻めの基地として利用したことからその戦略的価値は依然健在だったことがうかがえます。
幾度も窮地に陥った村重ですが戦乱を生き延び、最後は茶人として活動。豊臣政権下の堺で、天正14年(1586)に52年の生涯を閉じました。
おわりに
池田城は一国の守護が拠点としたものではありませんでしたが、有力な国人が代々本拠とした大規模な城でした。複雑な統治体制にあった摂津国において、その戦略的価値が重視されたポイントのひとつであり続けたといえるでしょう。補足:池田城の略年表
※参考:略年表
建武元年/元弘4年 (1334年)頃 | 池田教依が館を構築(伝承・推定) |
文明元年 (1469年) | 西軍・大内政弘の攻撃により落城 |
同 年 | 池田氏が池田城を奪還 |
永正5年 (1508年) | 細川高国の攻撃により落城、池田貞正らが自刃 |
永正16年 (1519年) | 池田久棟が池田城を奪還 |
永正17年 (1520年) | 細川澄元が池田城を攻撃 |
享禄4年 (1531年) | 大物崩れ勃発。細川高国の攻撃を受け、この後城の防備を拡充 |
天文2年 (1533年) | 淡路に逃れていた細川晴元が、池田城より芥川城に入城 |
永禄6年 (1563年) | 池田勝正が池田氏当主に |
永禄11年 (1568年) | 織田信長が摂津に侵攻、池田城落城 |
元亀元年 (1570年) | 池田氏内紛により池田勝正が当地を追放される |
同 年 | 勝正が信長の支援で池田城奪還を試みる |
元亀4年 (1573年) | 荒木村重が信長に臣従 |
天正2年 (1574年) | 池田勝正が高野山に追放される |
天正6年 (1578年) | 信長が荒木村重攻めで古池田に陣を張る。この頃廃城に(推定) |
昭和43年 (1968年) | 大阪教育大学により、翌年にかけて発掘調査実施 |
平成元年~4年 (1989~1992年) | 約2,500平方メートルの範囲を対象に発掘調査実施 |
平成12年 (2000年) | 池田城跡公園としてオープン |
【主な参考文献】
- 『日本歴史地名体系』(ジャパンナレッジ版) 平凡社
- 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
- 池田市観光協会公式サイト 池田城跡公園
- 池田城跡公園
- 池田城発掘調査結果 池田市教育委員会
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