【麒麟がくる】第28回「新しき幕府」レビューと解説
- 2020/10/20
主人公・光秀もここにきてようやく牢人から幕臣へ。舞台を都に移し、新章〈京~伏魔殿編〉に突入しました。信長との関わりでいえば、『信長公記』に明智十兵衛の名が登場するのがちょうどこのころ。やっと歴史の表舞台に躍り出ました。
摂津晴門
28話から登場した摂津晴門(はるかど)。第13代将軍・足利義輝の代に仕えた政所頭人(執事)でした。幕府の財政・政治に関わる政所の長官である頭人は、当初二階堂氏がよく任ぜられていましたが、世襲ではありませんでした。
これが14世紀末ごろになると、鎌倉時代末期以来の足利氏近臣である伊勢氏が世襲するようになり、摂津晴門が頭人に就任する前まで続いていきます。
晴門が就任できたのは、前の代の伊勢貞孝と義輝との関係が悪かったためといわれます。
貞孝は義輝の父・義晴の代から仕えていましたが、義晴・義輝の時代、将軍は近江にあり、とくに義輝の代は三好長慶全盛期でした。この長慶政権期に、貞孝は京にあって長慶に仕えたのです。
おかげで晴門が政所頭人になったわけですが、これもあの悪人ぶりを見てわかるとおり長くは続きません。
九十九茄子の茶入れ
登場しましたね、松永久秀と信長の関係を語る上で、茶器は重要なアイテムです。久秀が信長に臣従する際に献上したのが、今回出てきた「九十九茄子(九十九髪茄子)」の茶入です。
上洛した義昭のもとに献上品が届けられる様が描かれていましたが、それを興味深そうに眺めていたのが久秀です。さすが目利きで通った人物ですね。
これに対し、信長は久秀が献上した九十九茄子の価値もよくわかっていないようですし、茶器について鼻息荒く語る久秀に比べると光秀もあまり興味がなさそうです。
信長も光秀も茶道具を集めていますが、今後久秀や今井宗久との関わりの中で目が養われていくのでしょうか。
久秀と信長の始まりの茶器は九十九茄子、これは進んで献上されたものですが、久秀と信長の決別の茶器「平蜘蛛釜」が信長に譲られることはありませんでした。
平蜘蛛釜は久秀とともに木端微塵になったとされますが、九十九茄子は無事に残っています。
無事といっても、本能寺の焼け跡から発見されて秀吉の手に渡り、秀吉死後に大坂の陣で大坂城が落城するとまた焼け、割れたものを漆でつなぎ合わせて修復されたとか。
現在は静嘉堂文庫美術館に保管されています。
本圀寺の変
義昭が将軍に就任した翌年、永禄12(1569)年正月のこと。義昭の仮御所である本圀寺(当時は本国寺)が、三好三人衆らによって襲撃されました。信長は前年の10月末には岐阜に帰っており、この時本圀寺にはいませんでした。三好三人衆は信長不在のタイミングを狙って襲撃したといわれます(同じく久秀の不在を狙ったとも)。
事件後、数日遅れて信長が岐阜から駆けつけました。劇中で摂津晴門に怒鳴っていたとおり、襲撃の報せはすぐに届かず、1月6日になってやっと知らされたようです。
信長はわずか数名の供を連れて到着しましたが、この時期はものすごい寒さで、同行した人夫や下働きの数名は凍死してしまったとか。
信長は大勢の前で晴門を怒鳴りつけましたが、そもそも信長自身が上洛してすぐ岐阜に帰ってしまうことがどうかと思いますね。
しかしこれで自分が将軍をしっかり守らなければまずい、と危機感を抱いていろいろと口を出し始め、そのことで余計に晴門ら旧幕府体制派が不満を抱くという流れに。
ところで、本圀寺に襲撃したメンバーの中には、信長に美濃を追われた斎藤龍興(義龍の嫡男)もいましたが、「麒麟がくる」では義龍の死でもう斎藤氏の出番は終わりということなのか、登場しませんでしたね。
光秀が朝倉義景の元を去ったのは、長良川の戦いで敵対した義龍の子・龍興が越前にやってきたためとも言われているので、もしかすると光秀にとって因縁の相手なのですが……。
二条城の普請
六条の本圀寺が襲撃されたことで、信長は急いで新しい御所の普請を進めます。場所は義昭の兄・義輝の御所があったあたりで、現在の二条城の場所とは異なります。信長自身が指揮をとって進められ、御所はわずか2か月(70日ほど)で完成しました。
『信長公記』によれば、尾張、美濃、近江、伊勢、三河、五機内、若狭、丹後、丹波、播磨の14か国の大名や武将らを上洛させて急ピッチで進められたとか。
二町(200メートル)四方の広大な敷地の中に、天守、櫓を有し、四方には石垣が高く築かれた堅固な城であったといわれます。
神仏を恐れぬ信長像?
二条城の普請で印象的に描かれたのが、信長が城の石垣に石仏を利用したことです。実際、急いで城を完成させるためにあちこちから石仏や板碑・燈籠・供養碑・五輪塔などが集められ、石垣の石材として用いられていたようです。
地下鉄の京都市高速鉄道烏丸線建設工事のための発掘調査で、旧二条城跡から多くの石仏が出土しました。
発掘された石仏群は「京都文化博物館」や西京区の「洛西竹林公園」に展示されているようです。
石仏は腹部あたりが割られたものも多く、宣教師ルイス・フロイスの記録によれば、仏像を乱暴に扱う信長のこの行いに、京の人々は恐怖したとか。
子どものころ仏間で遊んで仏をひっくり返して、母上に「仏の罰が当たる」と叱られたが、仏の罰とはどんなものかと待ってみたが何も起こらなかった、と石仏を雑にペチペチたたく信長。
このよくある「神仏を恐れない」「無神論者」の信長像はのちの比叡山焼き討ちなどにつながっていくのでしょうが、ちょっとステレオタイプで違和感がありますね。
信長は神仏を軽視してはいませんでした。戦の際は熱田神宮で戦勝祈願をしたし、寺社を保護していた。特別信心深かったわけではないけれど、人並みにはあったでしょう。
それに、今回石仏を雑に扱う信長に向ける光秀の目はだいぶ不信感ありという感じでしたが、城の石垣に墓石や石仏を使うことに関しては信長に限ったものではなく、そう珍しいことではありません。築城に際してはどうしても石不足になるので、石仏や五輪塔、墓石などが転用石として使われた例は複数あるのです。
中でも多いのが、何を隠そう、光秀が築城した福知山城です。見えるところだけでおよそ500もの石仏、五輪塔、墓石などがあると言われています。これには城を守る意味合いもあったとか。
今回のこの演出は、神仏を恐れない信長と僧侶であった義昭の対比、今後の対立を描くうえで必要なのはわかりますが、光秀、お前がそんな目で見るなよ……と思ってしまいます。
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【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 奥野高広・岩沢愿彦・校注『信長公記』(角川書店、1969年)
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