「本圀寺の変 / 六条合戦(1569年)」信長の留守中を狙い、足利義昭仮御所を三好三人衆が襲撃!

本圀寺の変は、永禄12(1569)年1月5日、三好三人衆が第15代将軍・足利義昭を襲撃した事件です。本圀寺は義昭の仮御所で、六条御所とも呼ばれたため、この戦いは六条合戦とも呼ばれます。

将軍に就任した足利義昭の仮御所

足利義昭は、前年の永禄11(1568)年に信長に奉じられて上洛し、征夷大将軍になりました。
当時、第14代将軍・義栄を擁立して畿内にあった三好三人衆(三好長逸、三好宗謂/政康、岩成友通)らは信長の上洛軍を阻むことができず、居城も奪われてそれぞれ退却を余儀なくされました。

こうしてようやく将軍に就任した義昭は、京都の本圀寺を仮御所としました。なお、「本圀寺」の字で知られる寺ですが、当時は「本国(國)寺」の表記でした。

現在知られる表記は江戸時代、水戸光圀の一字をもらって改名したものです。

本圀寺の場所(現在の京都府京都市山科区)。色塗部分は山城国

信長は美濃に帰国して留守だった

ちょっとあり得ないことですが、信長は義昭が無事将軍に就任して幕府が再興したのを見届けるや否や、10月末には岐阜(美濃)へ帰国してしまいました。

ふつう、一緒に上洛したらそれで終わり、なんてことは無茶なのですが、信長の行動も事情を考えれば無理もありません。信長は美濃を平定したばかりで、領国を長く空けることには不安があったのでしょう。

かつて絶大な力をもって第10代将軍・義稙の上洛に従い、長く在京して軍事面から支えた周防の大内義興は、在京期間が長かったために国人領主たちは勝手に帰国しだし、領国も義興の留守を狙って勢力を拡大した尼子氏に侵攻される目にあっています。

本圀寺の変

年が明け、永禄12年1月4日。三好三人衆は軍勢を率いて信長不在の本圀寺に押し寄せ、包囲しました。その中には、信長に美濃を追われた斎藤龍興の姿もありました。先陣は薬師寺九郎左衛門です。

この時義昭を警護して本圀寺に立て籠もった織田勢は、太田牛一の『信長公記』によれば以下の通りです。

細川藤賢、織田左近、野村越中、赤座長兼、赤座助六、津田左馬丞、渡辺勝左衛門、坂井与右衛門、明智光秀、森弥五八、内藤備中、山県盛信、宇野弥七ら。

ちなみに、『信長公記』においてはこの襲撃事件の記述が明智光秀初登場でした。この警護にあたったメンバーは幕臣や信長家臣(尾張衆、美濃衆、若狭衆)で構成されていたようです。
このころの光秀については、通説では義昭と信長に両属していたとされますが、『信長公記』では美濃衆の坂井与右衛門、森弥五八に挟まれているので、信長家臣の美濃衆と認識されていたのでしょうか。

さて、戦闘に話を戻すと、三好勢の先陣の薬師寺九郎左衛門は織田勢の若狭衆・山県盛信、宇野弥七の活躍により結局本圀寺内へ入ることは叶わず、その間に織田勢の後詰・三好義継、細川藤孝、池田勝正、池田清貧斎、伊丹親興、荒木村重らが駆けつけ、三好勢は不利な状況に。

桂川のあたりで戦闘になりますが、後詰の登場もあって織田勢が勝利して終わりました。

大慌てで駆け付けた信長

岐阜にいた信長に本圀寺襲撃の報せがもたらされたのは、1月6日のことでした。この日は珍しく大雪でしたが、信長は極寒の中たとえ一騎でも出陣するつもりで慌てていたとか。

岐阜から3日はかかるところ、信長はわずか2日で京都に到着し、本圀寺に入りました。あまりの寒さで、この時人夫や下働きの者で凍死した者が数人いたとか。

信長が到着した時はすでに三好勢が退却した後でした。『信長公記』は、信長は御所が無事であったことに安堵し、池田清貧斎(正秀)の活躍ぶりを聞いて彼に恩賞を与えたと伝えています。

信長が築いた義昭の城

御所と義昭は無事であったとはいえ、信長は将軍の警護が手薄な状況がどれほど危険かを、身をもって感じたのでしょう。仮御所ではなくきちんとした御所が必要であると考え、義昭の御所の建築を始めます。

その御所は義昭の兄・義輝の御所があったあたりを中心に、堀を広げて改築され、「二条御所」「二条城」などと呼ばれました。のちに徳川家康が建て、現在世界遺産、国宝、重要文化財に指定されている二条城とは別の邸です。

御所はわずか二か月ほどで完成しました。義昭は4月14日に仮御所の本圀寺から移徙(引っ越し)しています。義輝の御所と同じ場所に築かれたとはいえ、義昭の新御所は二町(200メートル)四方の大規模なもので、そこには天守、石垣、堀、櫓があり、大変堅固な城であったようです。

信長は仮御所の脆弱性に気づいて急いで御所を建築したものの、完成して義昭が入るとまたすぐに岐阜へ帰国しました。その別れの際、義昭は涙して信長を見送ったとか。

このころの両者の関係は大変良好であったことがわかります。しかし、同年中には不和が生じたとされます。何が決定打となって対立することになったのか、はっきりとはわかっていません。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 金子拓『信長家臣明智光秀』(平凡社、2019年)
  • 日本史史料研究会監修・平野明夫偏『室町幕府将軍・管領列伝』(星海社、2018年)
  • 二木謙一編『明智光秀のすべて』(新人物往来社、1994年)
  • 奥野高広・岩沢愿彦・校注『信長公記』(角川書店、1969年)
  • 高柳光寿『明智光秀』(吉川弘文館、1958年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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