【麒麟がくる】第27回「宗久の約束」レビューと解説

光秀、信長、義昭、秀吉。本能寺の変に向けて重要人物が揃い踏みという感じです。信長と義昭は早くもうまくいく気がしない。光秀と秀吉はそれぞれ信長の命を受けて京の地で再会しましたが、キャラの違いがよく見えました。

信長と義昭

永禄11(1568)年7月。足利義昭は越前から美濃へ入り、信長に迎えられました。

『信長公記』には、7月25日に美濃の立正寺(立政寺)に到着し、信長は義昭の宿所に銅銭千貫文、太刀、鎧、武具、馬などを用意して献上した、とあります。

義昭は積まれた金を見て「これだけあれば1万の貧しき民がひと月は過ごせよう」と喜びましたが、その第一声を聞いて信長はがっかり。献上した太刀のすばらしさを語りますが、義昭は見向きもせず金に喜ぶ。

武家の当主になるべく育てられた信長にとって金は戦に必要なものですが、6歳で仏門に入った義昭にとって、金は民に施すもの。戦に使うなんて考えもしない。僧侶として生きた人がそのように考えるのも無理はないですが、まだ「あるものをあるぶんだけ施す」思考なのですね。

ひと月分施して、その先はどうするのか。義昭は目に見える範囲の人しか救えないことを嘆いていた人ですから、今後はあるものを活かして国をよく治め、多くを救う思考に転じていくのでしょうか。

そして、武士の棟梁として先頭に立って戦をしなければならないことを自覚した時、義昭がどう転ぶのか気になります。

それにしても初っ端からこれでは、仲違いも早そう……。

ほめられたい人、信長と秀吉

三好の兵数を調べてこいと信長に命じられた光秀は、変装して京に入り、木下藤吉郎(秀吉)と再会します。

秀吉は前回会った時と同様のマシンガントークで、信長の無茶ぶりをあれこれ語りつつ、それでもやったらやった分だけほめてくれて、褒美をくれる、約束を守る信長様は偉いのだ、と言います。

秀吉の行動原理は信長とほとんど同じなんですよね。ほめてもらいたい、褒美がほしい。貧しくて苦労した秀吉は、「針をこれだけ売ったら腹いっぱい食わせてやる」という約束を守ってもらえなかった。それどころか、売っても売ってもほめてもらうことなんてなかったのではないでしょうか。

それが、信長様はちゃんと約束を守ってくれるし、承認欲求を満たしてくれる。どれだけ母を求めても応えてもらえなかった信長が、帰蝶に出会ってほめられる喜びを知り、自分が人にされてうれしいことを人にもしよう、という。それが上司・信長のやり方になったのだなあ、と背景が見えますね。

それにしても、信長と秀吉は「ほめられたい」から行動する点で似ていて、多分ウマが合うんでしょうね。あの信長によって育てられる秀吉、ほめられたい人の系譜にあり、共通してサイコパスっぽいところがある。

何よりも「武士の矜持」を大事にする光秀はこのふたりとへだたりがあります。それに、光秀は信長に命じられたとき、藤吉郎と名前を出されても誰かすぐには思い出せませんでした。信長は一度会った人は誰であろうと覚えているし、秀吉ももちろん光秀のことをちゃんと覚えていた。ここも違いますね。

光秀にとって秀吉とは、この時点ではせいぜい信長が使う下っ端という認識だったのでしょう。ぺちゃくちゃしゃべる秀吉に、えらそうに講釈を垂れる余裕がある。このタイミングで信長に仕えない選択をした後、果たしてその余裕はどこまでもつのでしょう。

どこまでも武士の考え方

久しぶりに再会した光秀と駒。ふたりは美濃で一緒に過ごした時からさまざまな経験をして、よりそれぞれの立場の違いを明確にした感があります。

上洛するのはいいが、京のまちを戦に巻き込むなという駒に対し、光秀は戦のない世の中にするために今戦をするのはやむを得ないという考え方。これには駒もがっかり。

しかし、今回は「丸薬」というチートアイテムを武器に、駒は会合衆の今井宗久をも抱き込んで「武装せずに上洛」を叶えます。

今回は丸く収まったけれども、この乱世で「平和をもたらす麒麟を連れてくるにふさわしい人は誰か」を常に考えながら平らかな世をめざすには、争いを避けて通ることはできません。その矛盾にどう向き合うのか。

ここまで光秀は牢人で、何者でもありませんでしたが、「大きな国」をつくる道を信長に示した光秀は確実に権力側と結びついていきます。その中で矛盾に苦しみ、本能寺の変に向かっていくような気がします。

それも「平らかな世」をつくる大義のためなのでしょうが、結局は本能寺の変も京を戦火に巻き込んでしまうことになり、また矛盾しているのですが。

義昭か信長か。光秀は誰にいつ仕え始めた?

今回のラストで、再度信長に仕えるかどうか尋ねられた光秀はきっぱりと「私の心は決まっております。将軍のおそばに参ります」と答えました。

ここから幕臣・光秀が誕生するわけですが、こうはっきりと信長仕官を断って将軍に仕えることを選んだのは意外でした。

この時期の光秀が義昭と信長の両方に仕えていたという両俗説は定説になっていて、これまでの大河ドラマなんかでもそのように描かれてきたように思います。ただ、光秀が義昭に仕えた時期と信長に仕えた時期は重なっておらず、両属ではなかったのでは?という見方もあります。

光秀が信長に領地の志賀郡5万石を与えられるのが、元亀2(1571)年のこと。これは比叡山焼き討ちの功績によるものでした。正確な時期は不明ですが、このころ光秀は幕臣を辞すという書状を出しています。

同じころ、義昭と信長の関係は悪化の一途をたどり、通称「信長包囲網」が形成されていた時期でもあります。光秀は、義昭と信長の対立の中で立ち位置をかえた可能性も十分あります。

しかし、両属せず将軍に仕えることを選んだ光秀のその選択はよかったのかどうか……。「残念だが、以後そのように扱う」と言った信長の冷めた目が怖い。

光秀は大事な分岐点でいつも「この人に仕えたい」「この人が麒麟を連れてくるのでは」という人を選んできましたが、理想を求めずもっと利己的に生きれば楽だったでしょうに。

ところで、今のところ大きく扱われることのない人物に、「光秀にもこういう人生があったのでは?」と思える、対になる人物がいます。稲葉良通です。

同じように斎藤道三に仕えながら、高政(義龍)につく道を選び、高政の死後は若い龍興を早々に見限って信長に仕え、本能寺の変の後はうまく行動して立場を守り、秀吉について領地を安堵される。良通は長生きしました。

良通のように柔軟に生きれば楽なのに、光秀はあまりにもまっすぐでそれができない。そこが「麒麟がくる」の光秀の良さなのでしょうが。「頑固一徹」という言葉は稲葉良通の号「一鉄」に由来すると言いますが、どっちかというと光秀のほうが頑固ですね。

良通との因縁は今後もちょいちょいあります。




【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 奥野高広・岩沢愿彦・校注『信長公記』(角川書店、1969年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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