豪商か、家康家臣か、はたまた隠密か?茶屋四郎次郎の裏の顔が凄すぎた!
- 2023/07/11
私が豪商・茶屋四郎次郎の名を初めて知ったのは、今を遡ること40年ほど前だったと記憶している。その後、大河ドラマ等でその生涯を垣間見る機会があったのだが、後に改めて「どんな人か」と尋ねられると、はっきりと答えられないことに少々驚いたことがあった。
それもそのはずで、京の豪商という肩書の他に「陰の肩書」を複数持っていた彼の人物像を、私ははっきりと把握できなかったのである。様々な不明点は、今回の記事を書く過程で明らかになったように思う。
それもそのはずで、京の豪商という肩書の他に「陰の肩書」を複数持っていた彼の人物像を、私ははっきりと把握できなかったのである。様々な不明点は、今回の記事を書く過程で明らかになったように思う。
そもそもは武家の出
茶屋家は、『茶屋文書』によれば小笠原氏の一族で祖父・宗延の代には中島氏を名乗ったとされる。これは、宗延が城州中島(京都府南部)を領地としていたことに由来するという。父・明延の代には信濃の小笠原長時の家臣となっていたが、戦で負傷して武士を廃業し、京に上って呉服商をはじめた。『言継卿記』によると、それと前後して武田との戦に敗れ、所領を失った長時が三好長慶を頼り、上洛して来たらしい。
長時は室町幕府13代将軍・足利義輝の弓馬師範を務めるようになったという。なんでも、代々室町幕府の奉公衆であった京都小笠原氏の小笠原稙盛とは同族であり、このあたりのコネを最大限に利用したものと思われる。
さて、この長時が将軍義輝と共に明延宅を度々訪れて茶を飲むようになったのだが、これが屋号である「茶屋」の由来だそうだ。
家康との出会い
明延の嫡男・清延こと初代茶屋四郎次郎は、その生涯の割と早い時期に徳川家康と出会っていたようだ。「清延…(中略)永禄中(1558年~1570年)家康に近侍す」
と『茶屋文書』には記されている。
近侍とは簡単に言うと「仕える」ということであるから、単に家康と知己を得ただけではなく、家臣になったということだろう。そして、元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いに参陣しているところをみると、1560年代には家康に仕えていたものと思われる。
清延は天文14年(1545)生まれとされているので、歳は20歳前後であったろう。家康との出会いが唐突であるので、この時点で茶屋家は家康と取引があったと考えてよいのではないか。
以降、初代茶屋四郎次郎は呉服をはじめとして、武具等の軍需物資の調達も任されるようになる。一方、三方ヶ原の戦い後も長篠の戦いなどの重要な戦に参陣し、家康からの信頼も不動のものなっていった。そんな中、まさに青天の霹靂というべき大事件が起こる。
本能寺の変である。
伊賀越え
天正10年(1582)3月、信長による甲州征伐(武田征伐)が完了すると、論功行賞により家康は駿河国を拝領する。同年5月には信長より安土城に招かれ、大いに歓待を受けたという。その後、家康一行は遊覧のため京に向かうが、京での滞在先は清延宅であった。さらに、堺まで遊覧の足を延ばした一行に清延は同行したのであるが、堺遊覧後は京に戻る家康一行を迎え入れるため一足早く京に戻った。これが、大きな運命の分岐点となるのであるから人生はわからない。
6月2日、本能寺の変が起こる。西国へ向かうはずの明智光秀が京に入り、織田信長・信忠父子を討ってしまったのだ。このとき家康一行はまだ堺におり、この変を知らぬまま京へ向かうことになる。
同じ頃、京にいた清延は、「信長死す」の情報を既に得ていた。清延は血相を変え、主君・家康にこの件を急報せねばならぬと思った。京から取って返した清延が家康一行と出くわしたのは、大坂の枚方付近だったという。事の次第を知った家康はかなり動揺し、信長の後を追って切腹すると言って聞かなかったと言われている。
以上が、家康が本能寺の変を知った際の定番の筋書きだ。私は、この言動は盛り過ぎではないかと少々疑っている。それはなぜか?
第一に、茶屋四郎次郎清延は武器商人でもあったので、伊賀、甲賀、伊勢の有力土豪と懇意であったことが挙げられよう。そして第二に、家康一行の中に服部半蔵正成がいたという点である。
正成は伊賀者を統率する指揮官であったし、甲賀者にもかなり顔が利いたという。そして最も重要なのは、家康はこの2つの点をおそらくは把握していたであろうということである。
家康は決して万事休すという状況ではなかったように思う。清延は伊賀、甲賀、伊勢の地理にも明るかったというし、実のところ伊賀越えすべしという意見にまとまるのに、そう時間はかからなかったのではないか。
さらに、私が注目するのは本能寺の立地である。何とこの時代、清延の邸宅は本能寺のほど近くにあったというのだ。具体的には、清延の邸宅の西北約80mのところに本能寺があったらしいので、まさに目と鼻の先である。本能寺の変の当日、この場所からは本能寺に攻め寄せる明智の軍勢の鬨の声や銃声が聞こえたと思われる。というのは、イエズス会の南蛮寺が清延の邸宅の若干東にあり、ここから本能寺の変の様子がある程度把握できたからだ。
ルイスフロイス『日本史』にはこうある。
「我らの教会は、信長の場所からわずか一町を距てただけのところにあったので (中略) そのような場所であえて争うからには、重大な事件であるかも知れないと報じた。まもなく銃声が響き、火が我らの修道院から望まれた。」
清延宅は南蛮寺よりも本能寺に近かったので、さらにはっきり様子が把握できたに違いない。本能寺の変の直前の家康の動きを見てみると、5月28日から29日の早朝まで、この清延邸に宿泊していたことがわかる。
29日早朝に家康一行は堺見物へ向かい、6月1日には見物が終了した旨を信長に報告するため、清延は上洛。史料を読み合わせると、どうやら清延はこの日、自邸に泊まったらしいのだ。
ということは、清延は本能寺の変をリアルタイムで確認できたことになる。信長関係者の中でも一二を争うスピードで「信長死す」の報に触れたと言ってよいであろう。
家康を、変の直前に京から遠ざけ、いち早く変の報を得たといえば聞こえはよいが、あまりにもタイミングが良すぎはしないだろうか。本能寺の変の背後には、この手の「妙なタイミング」がいくつか存在する。
まずは、茶器オタクの信長が喉から手が出るほど欲しがっていた楢柴肩衝(ならしばかたつき)を所有していた、博多の豪商・島井宗室が、本能寺の変の少し前にあたる5月中旬に上洛しているが、彼は6月初旬には京を離れる予定であったという。
この情報を信長に伝えたのは千利休だと思われる。
信長は少々困ったろう。というのも、同じ頃、中国征伐を指揮していた羽柴秀吉から、信長直々の援軍を要請する書状を受け取っていたからである。
このままでは、楢柴肩衝譲渡の件を交渉できずに中国征伐に出陣することになってしまう。おそらく、信長は利休に相談したものと思われる。利休は宗室に掛け合い、6月1日の本能寺での茶会をセッティングしたというわけだ。
宗室の在京日程と秀吉からの援軍要請が妙なタイミングで絡み合い、信長は安土城から引きずり出された格好となった。一方の家康は、妙なタイミングで京を離れ、堺に滞在することになったのだ。
私は、本能寺の変には京と堺の豪商たちが微妙に絡んでいると睨んでいるが、清延は少なくとも家康一行が安土に向かう時点で、信長の身に何かある可能性をつかんでいたのではないか。
かくして、ある意味準備万端で決行された伊賀越えは甲賀・伊賀の土豪たちの協力もあり、比較的順調に行われたものと思われる。さらには、服部半蔵正成の働きかけと思われるが、伊賀・甲賀の手勢が続々と集まってきたという。その数約300というから驚く。そして、駄目押しは清延が京都から持ち込んだ銀子80枚であった。
伊賀越えにおいて最大の危険は、野武士や農民に落ち武者と思われて襲撃されることだったと思われる。彼らが、落ち武者を襲うのは金銭が目当てであったから、銀子を配って難を逃れようとの策であった。
これらが功を奏し、家康は無事三河にたどり着く。
隠密
清延は、表向きは呉服商として商いを続けながら、裏では家康のために諜報活動も行っていた。主に上方の情報を家康に報告していたという。『茶屋文書』には
「京都諸御用向御隠密御用等仰せつけ られ、相勤め奉り候」
とある。この「隠密御用」には家康・秀吉間の密使役も含まれていたと思われる。
家康は、小牧長久手の戦い後の天正14年(1586)に上洛する。これは、大坂城にいる秀吉に臣下の礼をとるためであった。この際、秀吉の知己を得た清延は、それ以降家康・秀吉間の使者となって奔走するようになったようだ。
あまり知られていないが、清延は極秘任務として朝廷工作も家康の代理として行っている。『勧修寺晴豊日記』の天正19年(1591)2月4日の記述には
「家康より茶屋の四郎二郎使いにて禁裏へ白鳥二つ、金十まい、をんみつにて進上也。」
と記されている。
さらには、家康の関東移封後には、江戸城下の町づくりにも参画したというから、まさに八面六臂の働きである。しかし、慶長元年(1596)7月27日、清延は家康の天下取りを見ることなくこの世を去った。
享年52と伝わる。
茶屋四郎次郎清延の死後
初代茶屋四郎次郎清延の死を受けて、嫡男清忠が二代目を襲名し、茶屋四郎次郎清忠となった。そして初代同様、家康の側近として多方面の活躍を見せる。特に、関ヶ原の戦いでは兵站において多大なる功績を挙げ、家康から絶大なる信頼を得たという。上方の諜報活動も引き続き行っており、京都所司代の設置は清忠の報告を受けてのことだとされている。
しかし、その生涯は初代よりかなり短かったと思われる。慶長8(1603)4月1日に清忠は急逝する。生年不明のため享年ははっきりしないが、初代清延の生年から判断すると、40歳前後で亡くなったのではないか。
清忠には子が無かったため、長崎奉行・長谷川藤広の養子となっていた弟の清次を、家康の命により茶屋家に復帰させ、三代目茶屋四郎次郎を襲名することとなった。
清次は慶長17年(1612)に、朱印船貿易の特権を得る。安南貿易に従事した清次は、莫大な富を築いたという。
一方、豊臣氏との決戦に備えて、大砲等の輸入にも着手するなど初代・二代目に劣らぬ働きを見せる。大坂冬の陣(1614)では和睦の交渉にもあたっていたというから、まるで幕臣であるかのような活躍ぶりである。
しかしその絶頂も長くは続かなかった。元和2年(1616)4月17日、家康は没する。最大の後ろ盾を失った茶屋家は、次第にその権勢を失い始めた。さすがの清次もこの流れを止められず、かつての栄光を取り戻せぬまま38歳の若さでこの世を去る。
元和8年(1622)7月16日のことだという。
あとがき
家康の死因は、鯛の天ぷらの食べ過ぎによる食あたりであると言うのが、長らく定説とされてきた。ところが、家康が鯛の天ぷらを食べたのは、元和8年(1616)1月21日のことで、亡くなったのが同年4月17日である点を考慮すると、直接の死因が食あたりである可能性は低いことが判明したのだという。ところで、この話には裏話がある。元和8年(1616)1月21日、家康は駿府にほど近い田中城で鷹狩を行っている。
『徳川実記』によると、この際、茶屋四郎次郎清次が田中城を訪問。話が上方の話題に及ぶと、清次は「鯛をカヤの油で揚げ、すった薤(にら)をかけて食べる料理が美味です」と答えた。家康は、調理を命じてこの料理を食べたが、その日の深夜に腹痛を訴えたという。
記録では、大鯛2枚・甘鯛3枚を食したというから、単に食べ過ぎだったと思われるが、この時家康は少々ヒヤッとしたのではないか。というのも、清次が鯛の天ぷらを紹介した時点で、たまたま久能城代の榊原照久から鯛が献上されていたからである。
疑り深い家康のことだから、遅効性の毒による暗殺を疑った可能性がないとは言い切れない。命に別状はなかったことで、関係者一同胸をなでおろしたではないかと推察される。
しかし、茶屋家にとって、この一件が与えた負のインパクトはかなり大きかったのではないか。家康の死に、図らずも絡んでしまったことで「評判」に傷がついてしまったことが、その権勢の失墜を早める要因となったと私は睨んでいる。
それにしても、初代清延にしろ三代清次にしろ、栄枯盛衰の境目は紙一重であるなと思った次第である。
【主な参考文献】
- 小和田泰経『家康と茶屋四郎次郎』 静岡新聞社 2007年
- 大石 学・小宮山 敏和他『現代語訳徳川実紀 関ヶ原と家康の死 』吉川弘文館 2011年
- 工藤章興『家康のコンサルタント 茶屋四郎次郎』学研プラス 2015年
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