「足利義輝」室町幕府13代将軍は幕府再興に尽力した稀代の剣豪将軍だった!
- 2020/01/17
室町幕府の将軍というと、幕府が京都に置かれたせいもあり、公家的で軟弱というイメージをお持ちの方もいると思う。しかし、事実は少々ことなる。
例えば、6代将軍義教は少々残虐な振る舞いはあったが、果断な性格であった。また、10代将軍足利義稙はいったん将軍職を追われ、周防の大内義興の元に身を寄せるが、後に義興の軍事力を背景に入洛し、将軍に返り咲いている。
13代将軍の足利義輝(あしかが よしてる)も、そんな豪気な将軍の1人であり、さらに剣豪であったというのだから驚く。史料からうかがえる義輝像とは如何なるものであろうか。
例えば、6代将軍義教は少々残虐な振る舞いはあったが、果断な性格であった。また、10代将軍足利義稙はいったん将軍職を追われ、周防の大内義興の元に身を寄せるが、後に義興の軍事力を背景に入洛し、将軍に返り咲いている。
13代将軍の足利義輝(あしかが よしてる)も、そんな豪気な将軍の1人であり、さらに剣豪であったというのだから驚く。史料からうかがえる義輝像とは如何なるものであろうか。
母は摂関家出身の御台所
足利義輝は天文5(1536)年3月10日に12代将軍・足利義晴の嫡男として生を受けた。幼名は菊童丸であった。母は摂関家出身にして御台所であったというが、これは室町幕府の将軍としては初めてのことだという。さらに、当時の慣例では室町幕府将軍の嫡男は代々政所頭人に任じられていた伊勢氏の邸宅で養育されるのが通例であったが、菊童丸は両親の元で育てられたとされる。
異例づくめの環境で育った菊童丸であったが、これは当時の幕府が置かれていた状況と無関係ではないだろう。
父との逃亡生活の中、11歳で将軍就任
混沌としていた細川政権
当時の中央政権は管領の細川晴元が掌握していたが、細川家や政権内部では常に不協和音が生じていた時期である。父の義晴もかつては晴元と対立関係にあり、度々軍事衝突を起こしていたが、義輝が生まれた頃には和解していたようである。しかしながら、晴元政権は木沢長政や細川氏綱など、まだまだ敵対勢力との対立が絶えなかったので、晴元を支持していた義晴もその影響を受け、度々近江坂本に避難するという有り様であった。
そのような状況であるから、幼い菊童丸を伊勢氏の邸宅で養育させるのは少々危険と判断したのか、義晴は菊童丸を伴って坂本に退却することが多かったようである。
将軍就任
こうした中、天文15(1546)年に遊佐長教の支援を受けた細川氏綱が挙兵し、一時的に晴元を京から追い出すと、これまで晴元支持の姿勢を崩さなかった義晴だが、ここで氏綱に転じた。しかし、すぐに晴元の軍勢に巻き返されて再び京を奪われることに…。そして同年末、菊童丸は亡命先の坂本で父義晴より将軍職を譲られたのである。わずか11歳での将軍就任であった。同時に元服も執り行われ、義藤(よしふじ)と名乗ったという。
その後、父義晴は天文17(1548)年には晴元と和睦、京に帰還して義藤の将軍就任を承諾する。
11歳という幼さで将軍となった義藤であるが、これは当時としては別段珍しいことではなく、実際父の義晴も11歳で将軍に就任している。
自分がまだ健在のうちに嫡男に将軍職を譲り、自身が後見するというのも当時よく行われた戦略であった。ただ、和睦のおりに将軍位を譲位していることを考え合わせると、新将軍就任というお祝い事に免じて、これまでの確執を水に流そうという狙いもあったのではないかと思われる。
三好長慶との対立
細川晴元との関係が好転しつつあると思われた矢先、なんと、晴元の家臣であった三好長慶(ながよし)が晴元に反旗を翻す。長慶は晴元に増して知略・軍略に優れた名将であり、人間的にも懐が深いという人物であったから、さすがの晴元も苦戦し、天文18(1549)年には江口の戦いで長慶に敗れる。
またも後ろ楯を失った義晴・義藤父子は、やむなく京から近江坂本に退却するが、さらに不運は続いた。
天文19(1550)年、義晴が穴太にて死去。こうした状況下、以後の義藤は京都の実権を取り戻すために反三好で晴元と共闘していくことになる。
死の直前、義晴は長慶を撃破すべく京に中尾城の築城を開始していた。義藤は中尾城にて長慶と一戦交えるも援軍が思うように集まらず、不利な戦局が続いたため、結局中尾城に火をかけ、堅田(かねた)への退却を決意する。(中尾城の戦い)
一方、三好長慶側の体制も磐石ではなく、義藤との和睦を巡って伊勢貞孝が奉公衆の進士賢光とともに長慶と対立し、義藤方につくなど、情勢は流動的であった。義藤はこの機を逃さず、翌天文20(1551)年には長慶の暗殺を試みているが、失敗に終わっている。
そんな折、同年の5月に親長慶派である遊佐長教(ゆさ ながのり)が暗殺されるという事件が起こる。それまでの経緯から、この事件の首謀者は義藤ではないかと囁かれたという。
その後の義藤の動きを見ると、私も首謀者は義藤であろうと思ってしまうのである。というのも、遊佐暗殺からわずか2ヶ月後の7月には、幕府軍が権力奪還を目指して入京したからである。
ところがこのとき、幕府軍を迎え撃ったのは、よりによってあの戦上手の松永久秀であった。4万の兵を擁する松永軍の前に幕府軍は敗れる。世に言う「相国寺の戦い」である(以下は対立構図)。
◆ 三好長慶派
- 松永久秀
- 松永長頼
VS
◆ 細川晴元派(幕府軍)
- 三好政勝
- 香西元成
この後、一時的に長慶と和睦した時期もあったが、幕府内の権力闘争などの影響もあり、義藤自身が長慶との和睦を破棄するなど政情不安が続くことになる。
この混乱は数年続いたのであるが、その最中の天文23(1554)年、義藤はここでようやく名を義輝(よしてる)に改めている。
六角義賢(ろっかく よしかた)の仲介により、長慶と和議が成立し、事態が収束したのは永禄元(1558)年5月のこと。義輝は念願の将軍御所入りを果たしたことで、積極的に幕政を取り始めた。将軍就任から、実に12年後のことであった。
結果として三好長慶や松永久秀も建前上ではあるが、幕府体制に取り込まれていくこととなったのである。ちなみに晴元は反三好を続け、のちに和睦するも摂津の普門寺城に幽閉され、その地で亡くなっている。
将軍親政
権力を掌握した義輝は将軍権威の復活に精力を傾け始めた。その一環が戦国大名の調停であった。史料によれば、義輝は戦国大名の調停を頻繁に行ったことで知られる。有名なものを挙げれば、毛利元就と尼子晴久、松平元康(徳川家康)と今川氏真、北条氏政と武田晴信など、そうそうたる顔ぶれである。また、義輝は有名な川中島の合戦において、武田晴信を信濃守護に補任するなどの任官斡旋も積極的に行っている。ここに、義輝の戦略が見えるように思われる。
注目したいのは相伴衆(しょうばんしゅう)拡充策であろう。
相伴衆とは、そもそもは将軍が殿中での宴席や他家を訪問する際に御伴する役職であり、管領家及びその一族や有力守護大名が任命されるのが習わしであった。戦国時代に入ると、このしきたりが少々薄れ、戦国大名の中にも相伴衆に任命されるものが現れ始めたのである。
義輝はこれをさらに拡充し、毛利元就、毛利隆元、大友義鎮(おおとも よししげ)、斎藤義龍、今川氏真、三好長慶、三好義興(みよしよしおき)、武田信虎らを任じた。
これは一種の懐柔策とも取れる。というのも三好長慶に至っては、戦国大名ですらないのに相伴衆に任じ、管領職の代行を行わせている。管領という職が既に形骸化していたという事実を利用し、相伴衆に任じられれば幕府内での地位向上が図られるというイメージを植え付ける策ではないだろうか。
一之太刀
足利義輝と言えば、歴史好きの方にとっては剣豪将軍というイメージが強いと思う。今やゲームや小説、マンガなどですさまじい武勇を発揮するキャラとして活躍している。塚原卜伝より奥義「一之太刀」を伝授されたと言われていることから、義輝=剣豪とのイメージが出来上がったのであろう。確かに、細川忠利宛に門弟である雲林院弥四郎を推挙した柳生宗矩書状によれば、上方の塚原卜伝の直門として義輝や北畠具教の名が記されているというから、卜伝の直弟子であったことは確かであると思われる。
ところが、義輝が免許皆伝したという記録は一切なく、「一之太刀」についても北畠具教や細川藤孝にも授けられたという。このことから、義輝が剣豪だったという説に疑義が生じているようなのである。
しかし、免許皆伝していないから剣の達人ではなかったのでは、という推論は論理的でないと私は感じている。ともかく史料を紐解いてみよう。
一次史料にある記述
ルイスフロイス『日本史』によれば、義輝は「とても武勇すぐれて、勇気ある人だった」と評されている。そして、のちほども触れるが、永禄の変の際の奮戦ぶりも史料に残されている。「義輝は自ら薙刀を振るって戦い、人々はその技量の見事さにとても驚いた。その後はより敵に接近するために薙刀を投げ捨て、刀を抜いて戦った。その奮戦ぶりはさながら勝利を目前にしている者にも劣らなかった」
さらに、『信長公記』にも
「数度きつて出で、伐し崩し、数多に手負わせ、公方様御働き候」
との記述がある。
この2つの記述は内容的に大きく食い違っていないと思われる。
後世の史料には?
さて、ここで問題となるのが頼山陽の『日本外史』である。この史料には「足利家秘蔵の名刀を畳に刺し、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて、寄せ来る敵と戦った」というような内容が記されている。この『日本外史』は江戸時代後期に成立した資料であり、先の『信長公記』やルイス・フロイス『日本史』に同様の記述がないことから、創作の要素が強いとされる。
では、頼山陽はどうしてこのような記述をしたのであろうか。実は、同様の記述がある史料がもう1つある。『足利季世記(あしかがきせいき)』という軍記物である。
この書物は、1487年~1571年の畿内の合戦を中心にまとめられたもので、成立年代・作者ともに不明というミステリアスな史料であるらしい。おそらく、頼山陽はこの『足利季世記』の内容を踏まえて『日本外史』を書いたのではないだろうか。
私は、義輝は塚原卜伝から免許皆伝を受けていないかもしれないが、相当な剣の腕前だったことは事実ではないかと思っている。
義輝暗殺
長らく権勢を誇った三好長慶も、永禄5(1562)年の久米田の戦いで猛将として知られる弟の三好実休(じっきゅう)を失ったことで、その勢力にほころびが生じ始める。この機に乗じて、政所執事の伊勢貞孝が長慶に離反。政所介入を望んでいた義輝は長慶を支持し、貞孝を政所執事より罷免したのである。
後に貞孝は反乱を起こすが、長慶によって討取られている。これによって義輝は政所掌握を果たす。さらには永禄7(1564)年7月三好長慶が病死。幕府を傀儡と化す力が三好氏から削がれつつあった。
そんな折の永禄8(1565)年5月19日、松永久通と三好三人衆及び三好義継は1万の軍勢で二条御所を包囲した。清水寺参詣を名目に集めた兵だとされる。軍勢は将軍に訴訟(要求)ありと偽り、取次ぎを求めて御所に侵入した。いわゆる「永禄の変」の勃発である。
義輝の奮戦ぶりは先に書いた通りであるが、多勢に無勢では如何ともしがたく、ついに命尽きてしまう。一説には槍で足を払われ、倒れたところを一斉に攻められ刺殺されたという。享年30であった。
あとがき
『信長公記』によれば、織田信長は義輝暗殺について朝廷軽視が非業の死の原因だと述べたという。確かにそういう要因はあったかもしれない。何せ、在位中に内裏への参内を行ったのが僅か5回なのである。しかし、それにも増して私には気になる点がある。それは義輝が暗殺という手法を用いたということである。
全くの主観であるが、暗殺に手を染めた者の末路はあまりよろしくない傾向があると思う。特に戦国期についてはそれが顕著なようである。織田信長しかり、三好三人衆もまたしかりである。
これは長年にわたって三好政権の中枢で巧みな政略・軍略を駆使し、「最初の天下人」とも評される三好長慶とは対称的である。長慶は敵を徹底的に追い詰めない、非常に懐の深い人物であった。そして、繰り返すが長慶の死因は病死なのである。
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【参考文献】
- 山田康弘『足利義輝・義昭:天下諸侍、御主に候 』(ミネルヴァ日本評伝選、2019年)
- 丸山裕之『図説 室町幕府 』(戎光祥出版、2018年)
- 今谷 明・天野 忠幸『三好長慶』(宮帯出版社、2013年)
- 松田 毅一・川崎 桃太 (翻訳)『完訳フロイス日本史1』(中公文庫、2000年)
- 太田牛一『信長公記』(角川文庫―名著コレクション、1984年)
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