関ヶ原争乱における上杉景勝の心理はどのようなものだったのか?

米沢城跡(山形県米沢市)にある上杉景勝公(左)と直江兼続公(右)の主従像
米沢城跡(山形県米沢市)にある上杉景勝公(左)と直江兼続公(右)の主従像

関ヶ原の争乱と謀反人・上杉景勝

 関ヶ原争乱(慶長庚子の大乱)、いわゆる関ヶ原の戦いの原因は、会津の上杉景勝にある。景勝周辺の大名が、上方の豊臣政権に「景勝が謀反を企んでいる」と繰り返し訴えたことで、これを危険視した大老の徳川家康が討伐を決意したことがすべての始まりだった。

 上杉景勝には、天下を敵に回す覚悟がある。これはすでに周知の事実であった。今回は関ヶ原争乱における上杉景勝の心境を見ていこう。

近世大名に塗り変わる

 天正6年(1578)3月、上杉謙信が亡くなった。謙信の養子である景勝は御館の乱で義兄・上杉景虎と跡目を争い、これを打ち滅ぼした。

 だが、敵は義兄だけではなかった。その勝利後も、至強の大敵・織田信長の侵攻が迫っていたのだ。

 景勝と同盟を結んでいた甲斐の武田勝頼は、織田信長が討滅した。ここに信長は、事実上の天下人となりつつあった。織田軍は謙信が奪った能登・加賀に制圧して、さらに越中を攻め取る。そして上杉家臣だった越後下郡の 新発田重家と合力して、信濃・上野から越後へと乱入を企てる。

 もはや勝ち目はほとんどない。

 謙信が生きていた時代には、周辺の諸勢力が越後上杉家の指揮下に属していた。謙信が亡くなり、景虎の反乱によって越後が二分すると、彼らの心も越後から離れた。その間に、敵対勢力は勢力を押し広げ、特にただでさえ巨大であった信長は、もはや太政大臣・関白・将軍のいずれかに就任するかを求められる寸前にまで威勢を高めていた。

 この時、天正10年(1582)5月1日、景勝は 常陸の佐竹義重に宛て、思いの丈を書き送った。

 越後一国で「六十余州(日本全土)」の大軍相手に「滅亡」するのは死後の思い出になるだろう。もし「万死於令一生(万死に一生)」を得れば、この国に並びなき「英雄」になれるから、好い時代に生まれたものだ──と喜びの声を伝えたのだ。

 しかし 6 月 2 日に起こった本能寺の変により、信長は横死。越後を攻めようとしていた織田軍は続々と撤退する。まさに「万死に一生」を得た。景勝は、おのれの剛毅一直な思考に強い自負を得たであろう。

 御館の乱に勝利したあと、謙信時代にはまだ緩かった家中の意識を大きく塗り替えた。「家臣たちの独断専行を許さない」という景勝の厳しい統制意思が、上杉家を近世の大名へと進展させたのだ。

 新生・上杉軍は、反攻に出る力があった。手薄になった織田軍から越中魚津城を奪還すると、武田遺領を分割していた北条軍と徳川軍と三つ巴の争いを行ない、北信濃川中島方面を勝ち得た。

 一度滅亡の覚悟を経た景勝は、もはやおのれの運命を嘆いて立ち止まったりはしない。迷いなくその実力を発揮していく。その後、景勝は豊臣秀吉の麾下に入り、小田原討伐や奥州の一揆鎮撫を転戦した。

景勝の会津転封

 会津に入った 蒲生氏郷が病死すると、秀吉から越後を離れるよう命じられた。越後と同格の石高を持つ会津四郡仙北二郡ならびに置賜・田川・飽海・佐渡等、約120万石に移封されることになったのだ。

 慶長3年(1598)、その秀吉は大名たちに朝鮮出兵を進めさせているところで寿命が尽きてしまう。豊臣の天下に陰りが生じた。

 秀吉死後、畿内より帰国した景勝は、豊臣政権の徳川家康から無理な上洛を要請され、そのありようが「太閤ノ遺命」と違うことに不満の色を隠さなかった(『景勝公御年譜』)。このため豊臣政権の家康から敵視されたという。

 対する景勝は、「そんなに言うのなら秋には上洛しよう」と答えた。ただし、次の要求も述べていた。

「しかしその前に、私に謀反の企みがあるなどと、根も葉もない噂を流している者のことから疑うべきではないですか」

 ほとんど悪魔の証明のよう無理な要求をしていたのである。

 しかもその間に戦争準備を進めていた。和戦両用というわけではない。景勝は戦争準備を外交のカードとして使っておらず、公儀に勘付かれないよう、こっそりと推し進めていた。

 例えば、本城である神指城を整備するという名目を公言しておきながら、動員した労働力を伊達政宗領との境目の修築を急がせている。しかも秋までに終わらせろという指示である(乃至政彦・高橋陽介『天下分け目の関ヶ原合戦はなかった』河出文庫、2021)。

大乱勃発

 豊臣大老の家康にすれば、もし景勝の反意が真実である場合、一方的に上洛を秋まで延期させた景勝を放置することはできない。実際、景勝は開戦に向けて着々と準備を進めていることが漏れ聞こえていた。

 かくして、徳川家康は、景勝の討伐を決意する(会津討伐)。

 家康に野心があったと言われることが多いが、景勝に捨ておけない反意の証拠が多数あることは明白だった。家康個人の意思など関係ないのである。

 ここに再び日本全土を敵に回すことになった景勝だが、勝算ゼロというわけではなかった。

※参考:家康は景勝討伐に向け「伏見城→江戸城→小山」と進軍。その間に石田三成ら西軍陣営が挙兵(編集部作成)
※参考:家康は景勝討伐に向け「伏見城→江戸城→小山」と進軍。その間に石田三成ら西軍陣営が挙兵(編集部作成)

 家康が討伐軍を率いて関東に入ると、上方で異変が起きる。大老・毛利輝元や宇喜多秀家らが大坂を制圧して、奉行衆が「内府ちかいの条々」なる家康糾弾状を発行することで、家康討伐を表明したのだ。

景勝の本意

 景勝はこの時を待っていたのだろう。自分も「天下へ馳走する」と、上方で挙兵した“西軍”陣営に参加する意思を表明した。ここに日本は西軍と東軍に分裂する。

 景勝からすれば、秀吉亡きあとの豊臣政権が簡単に分裂することは必定と見えた。

 大老筆頭の家康は関東250万石の国力があることを公表しており、しかも実高はそれ以上と見られていた。ついで上杉景勝が120万石、そして毛利輝元は112万石。

 秀吉死後の徳川家康と奉行衆の石田三成は、朝鮮半島にあった諸大名の軍勢撤退戦を、ふたりして主導するうち、「自分がひとりでやった方が早い」と思い始めていたらしく、家康は「合議制を軽視した動きが見られるように」なり、「撤兵の終盤にきて、彼らの協力関係に微妙な齟齬」が現れたようである(中井俊一郎『知られざる三成と家康』Amazon ペーパーブック、2023)。

 そして撤退が終了すると、家康の私婚問題や、石田三成襲撃(訴訟)事件など、両者は互いに周囲から反発を受けやすい形となっており、輝元も家康の政権主導を苦々しく見ていた。

 これで大きな波乱が起きないはずがなく、問題はこれをいつ誰が起こすかを見据えており、あえて謀反の準備を整えていたのではなかろうか。

 しかし、結果は西軍の敗北に終わった。これでギクシャクしていた天下は、すっきりしたものとなっていく。徳川家康の天下となっていったのだ。

 徳川陣営の中から、景勝の反意は明確ではないとする声が上がり、景勝も降伏を受け入れ、新たに建てられた徳川幕府の大名となることになった。

 かつて、養父・謙信は、足利幕府の再興にその身命を賭していた。だが、信長が幕府を滅ぼし、続けて謙信、信長の死、秀吉が天下人に王手をかけたことによって、足利幕府の再建は絶望的となった。

 ここで景勝は、謙信の友人だった太閤・近衛前久に

「この景勝、若輩ではありますが、『先の筋目』をやり直されるというのでしたなら、(前久の存念に)従います」

と伝えている。

 謙信の夢を捨てて、前久の思う天下泰平の実現に貢献する覚悟を伝えたものであろう。景勝は、政権の形に強いこだわりなどなかった。

 新たな時代へ進もうとする者だけが、近世を受け入れることができたのである。

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  この記事を書いた人
乃至 政彦 さん
ないしまさひこ。歴史家。昭和49年(1974)生まれ。高松市出身、相模原市在住。平将門、上杉謙信など人物の言動および思想のほか、武士の軍事史と少年愛を研究。主な論文に「戦国期における旗本陣立書の成立─[武田信玄旗本陣立書]の構成から─」(『武田氏研究』第53号)。著書に『平将門と天慶の乱』『戦国の陣 ...

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