保証人はなんと神仏!誓約書状「起請文」の世界
- 2020/01/30
長きにわたる動乱が続いた戦国時代は、戦いの時代であると同時に「条約」の時代でもありました。それというのも、常時戦闘状態を維持することは困難であるため停戦・休戦・和睦・同盟等々、交渉と同意による外交政策がより重要であったためです。
さらに、当時の国力を計る基礎は土地と米の収穫高であり、主君は家臣に対する報酬として土地配分を公正に行う必要がありました。これらは条約や契約であり、それを証明するための文書がしきりに作成されました。これは現代でも同様で個人や団体、国家の間でも契約や条約が締結され、その旨を書面で確認することが行われています。
しかし、たとえ法的なペナルティがあったとしても、契約・条約は善意の同意か利害関係の一致によって維持されているのが現実です。どちらかが一方的に破棄することもあり得る事態で、歴史を振り返っても実際にそういった事例は枚挙に暇がありません。そのため、いわば「担保」になるものを設定することも一般的な手法となります。違反した場合の罰則事項を同意することで、条約維持の有効性を補強するものです。
通信技術が発達してリアルタイムで世界中とつながる現代であってもそうですが、では戦国時代の人々はどのように契約や条約を結んでいたのでしょうか。彼らが用いた書面は「起請文(きしょうもん)」と呼ばれ、端的にいうと神仏を保証人とする体裁の条約書を取り交わしていました。
今回はそんな、起請文についてのお話です。
さらに、当時の国力を計る基礎は土地と米の収穫高であり、主君は家臣に対する報酬として土地配分を公正に行う必要がありました。これらは条約や契約であり、それを証明するための文書がしきりに作成されました。これは現代でも同様で個人や団体、国家の間でも契約や条約が締結され、その旨を書面で確認することが行われています。
しかし、たとえ法的なペナルティがあったとしても、契約・条約は善意の同意か利害関係の一致によって維持されているのが現実です。どちらかが一方的に破棄することもあり得る事態で、歴史を振り返っても実際にそういった事例は枚挙に暇がありません。そのため、いわば「担保」になるものを設定することも一般的な手法となります。違反した場合の罰則事項を同意することで、条約維持の有効性を補強するものです。
通信技術が発達してリアルタイムで世界中とつながる現代であってもそうですが、では戦国時代の人々はどのように契約や条約を結んでいたのでしょうか。彼らが用いた書面は「起請文(きしょうもん)」と呼ばれ、端的にいうと神仏を保証人とする体裁の条約書を取り交わしていました。
今回はそんな、起請文についてのお話です。
「起請文」とは
起請文とは、神社や仏閣が発行する厄除けの護符である「牛王宝印(ごおうほういん)」の裏に、守るべき約束などを記した契約書の一種です。前文として遵守事項を明記し、次に当事者が信仰する神仏の名を列記します。最後に、違反があった場合にはそれらの神仏から天罰が下る、といった旨を記すのが一般的な起請文の体裁とされています。
これはつまり、神仏を仲立ちとして約束事や条約の遵守を相手に誓うものであり、心情的には「誓約書」と呼ぶ方が近いかもしれません。
起請文を護符の裏に書くのは鎌倉時代後期頃から一般化したと考えられており、大和・東大寺、豊前・彦山、京都・石清水八幡宮、加賀・白山、紀伊・高野山等々、有名社寺が牛王宝印として発行したものが知られています。
中でも紀伊・熊野三山の「熊野牛王符」は最も知名度が高く、よく使われたといいます。熊野牛王符は幾羽もの烏が集まって文字を形成しているデザインであり、別名を「烏牛王」ともいいます。
神話上、熊野で神武天皇を導いたとされる「八咫烏(やたがらす)」に因んだものであり、「熊野山宝印」「那智瀧宝印」など文字にはいくつかのバリエーションがあります。
熊野三山の牛王宝印は近世に至るまで広く使用され、現在でも熊野本宮大社での神前結婚式では誓詞の裏に牛王符を貼付する習わしになっています。
起請文の使いどころは色々
和睦の証明
戦国武将の起請文としてまずイメージされるのが、停戦・休戦あるいは和睦に関する内容です。一例として、徳川家康が「北条氏規」に宛てた起請文を取り上げてみましょう。
参考:神奈川県立歴史博物館HP
徳川家康起請文
これは天正10年(1582)の信長の死後、甲斐武田氏の旧領(甲斐、信濃、上野など)をめぐる争い、いわゆる天正壬午の乱において、徳川氏と北条氏が和睦した際に取り交わされたものであり、その身命を保証することを約束したものです。
氏規は後北条氏三代目「北条氏康」の三男にあたり、家康はこの氏規を通して後北条氏に働きかけていたことが多くの書状から推定されています。
この起請文はフォーマット通り、誓約内容を記した前文に続き神仏の名を挙げて違反時には天罰を被る旨が書かれています。誓紙は熊野の牛王宝印ではなく、美濃・長瀧寺発行の「白山瀧宝印紙」を使用しています。
神仏名としては「日本国中大小の神」「ふし(富士)」「白山」「天満天神」「八満大ほさつ(八幡大菩薩)」「あたこ(あたご)」などが列記され、武将としての地域性をも感じさせる信仰内容となっています。
領地の証明
武士にとって領地とはすなわち報酬であり経済力の要であり、「一所懸命」の語源となった生命線でした。したがって、領地所有に関する文書もとても重要なものだったのです。京都府亀岡市の「勝林島」という地域には、明智光秀の重臣であった小畠氏の所領があり、自身の領地を申告した小畠氏の起請文が残されています。
そこには「参百弐拾石桑田郡勝林島村之内」と記され、同一地域内で細かく所領が区分されていた様子をうかがえるといいます。
このようなことから、同じ家中でもそれぞれの領地申告には神仏の仲介をもって虚偽のないことを保証するような、デリケートな事情があったことが推し量れます。
愛情と潔白の証明
戦国時代には「衆道」といって、男性同士の恋愛関係が盛んだったことが知られています。武勇や人柄を認め合った場合にもそういう交際があったとされ、独特の文化ともいえます。しかし、そこには異性愛同様に猜疑や嫉妬も含まれ、しばしばトラブルにもなったようです。
有名な例をひとつ挙げると、伊達政宗とその恋人とされる「只野作十郎」とのやりとりです。
ある時、讒言によって政宗から浮気を疑われた作十郎は、刀で自らの腕を傷つけ、身の潔白を証だてる書状を献上します。これは「貫肉」という風習で、変わらぬ愛情を示す行為のひとつでした。恥じ入った政宗は返書のなかで、「血判を捺し、起請文を書く」という内容の謝罪を行っています。
つまり恋愛関係においても起請文を使用したということで、江戸時代の遊女も客との疑似婚姻に熊野誓紙を用いたことからもその様子がうかがえます。
おわりに
起請文には現実にどの程度の拘束力があったかは定かではありませんが、神仏という人知を超えたものを仲介とする文化はある種の普遍性をもっているといえるでしょう。列記された神仏名や誓紙の発行寺社など、誓約者の個人的・地域的な信仰を垣間見られるのも興味深い点ですね。
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【参考文献】
- 「日本中世前期における起請文の機能論的研究―神仏と理非―」『史学雑誌 120編(11号)』2011 佐藤雄基
- 『日本民族思想の研究』 津田敬武 1922 大鐙閣
- 神奈川県立歴史博物館HP 後北条氏関係文書
- 亀岡市HP 光秀公のまち亀岡 連載~明智光秀~ 第10回 明智光秀と勝林島
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