「大寧寺の変(1551年)」陶隆房による主君・大内義隆へのクーデターの顛末とは

大内義隆が重臣の陶隆房(のちに晴賢に改名)の謀反によって自刃に追い込まれた政変「大寧寺の変」。これにより大内氏は事実上滅亡します。なぜ謀反は起こったのか。複数の動機を取り上げながら、一連の出来事を紹介します。

謀反に至るまでの背景

出雲遠征の失敗

まず発端となったのが、天文11年(1542)の出雲遠征(第一次月山富田城の戦い)の敗北でしょう。

吉田郡山城の戦いで尼子に勝った義隆は、さらに尼子を追い詰めるべく月山富田城攻めに出ますが、難攻不落の名城ゆえ戦は長期化。結果的に大内軍は敗走します。このとき、義隆の嫡男(養子)の晴持が戦死。かわいがっていた後継者の死を嘆き悲しんだ義隆はよっぽどこたえたのか、以後軍事から遠ざかります。

尼子氏の本拠・月山富田城跡
尼子氏の本拠・月山富田城跡。戦国期は難攻不落の要塞だった。

相良武任 VS 武断派の重臣

政治に見向きもせず学問、文学、宗教に力を注ぎ始めた義隆。それまでは武断派の、中でも筆頭格の守護代・陶隆房を重用していましたが、文治派の相良武任(さがらたけとう)らを重用するようになります。

大内義隆の肖像画
文治体制への転換により、滅亡の道をたどった大内義隆

というのも、文治派は出雲遠征に反対しており、結果敗北したため「それ見たことか」とふんぞり返っていたのでしょう。義隆も相良のいうことを聞いておけばよかったとでも思ったのか、武断派の意見を聞き入れず完全に文治へ傾いてしまうのです。

これにより、相良武任(文治)vs 陶隆房(武断)の構図ができあがりました。隆房の派閥には家老の杉氏、内藤氏らもおり、対立が続くほどに隆房側の勢力は増えていきました。それだけ当時の義隆のやりよう、相良武任の振る舞いに不満を抱く家臣が多かったということでしょう。

義隆の遊興で不満爆発

さらに、軍事から離れた義隆が公家らと遊び耽るのも問題でした。応仁の乱で京の都は荒れ、大内氏が治める山口には多数の公家や文化人が訪れており、中には知行をもらって定住する者もいたようです。

義隆らは毎日歌を詠んだり音楽を奏でたりして遊んでいればいいですが、湯水のように使われる金は誰が負担するのか。それは当然領民です。

守護・義隆の下には各地を支配する守護代を置きましたが、それを担ったのが隆房ら重臣でした。高い税をとられ、経済的負担を強いられるのは守護代が管理する分国の領民たちです。

当然、上の立場である隆房らにも負担はかかります。

「このまま現状が続けば領国の統治はどうなってしまうのか……。」

重臣たちの憂慮は謀反の大きな動機となったのです。

隆房が謀反を決断するに至るまで

義隆はどれだけ諫めても聞き入れようとしなかったため、隆房は次第に謀反を考えるようになります。すでに天文14年(1545)ごろにはその考えがあったようで、このことは他の家臣らも知るところとなります。武任も勘づいて隆房を恐れたのか、同年中に剃髪して肥後へ逃れます。

相良武任の出奔

武任はその後戻ってきてはまた出奔する、という行動を繰り返しました。武任自身がどうしたかったのかはわかりませんが、まず義隆が天文17年(1548)に呼び戻して再出仕させたのです。

出奔した武任がそのまま帰ってこなければもしかするとクーデターは起こらなかったのかもしれません。が、わざわざ武任を呼び戻した義隆を見て、陶隆房らは「これは義隆をどうにかするほかない」と考えるようになります。

この間、重臣のひとりである杉重矩は隆房の逆心を察知し、義隆に再三進言していたのですが、義隆は大した措置を講じませんでした。

武任暗殺は失敗に終わる

天文19年(1550)、隆房は武任の暗殺を企てますが、身の危険を察知した武任は義隆に密告して助かります。保身のために自身の娘と隆房の子の婚姻話を持ち出すなど、隆房との関係回復を狙いますが、拒まれて失敗します。

武任は再度出奔して肥後へ向かいますが、道中で大内家臣の筑前国守護代・杉興運に捕らえられます。このとき起こっている出来事を説明するのですが、その内容は隆房讒訴の責任を杉重矩に擦り付ける責任逃れの弁明でした(相良武任申状)。

「隆房が謀反を企てていると言ったのは杉重矩だ。重矩はそれが義隆に聞き入れられないとわかると今度は隆房に寝返り、責任を武任になすりつけて保身を図った」

武任の主張を要約するとだいたいこのような感じです。義隆に責任を追及されるのがこわくて人に責任をなすりつけたのは武任のほう……。もともとは義隆を諫めていた杉重矩が隆房側に転じたのも、この件があったからともいわれます。

隆房は居城に引きこもり、本格的に謀反を計画

隆房は本格的に主家簒奪の計画を立て始めます。天文19年(1550)11月に病を理由に富田の居城・若山城に引きこもり、以後出仕しませんでした。隆房はすでに同年中に毛利元就の次男・吉川元春に密書を送り、協力を求めます。毛利側も隆房に同調する意を表します。

当初は義隆隠居→義尊擁立という案もあったが……

隆房が吉川元春に宛てた同年8月24日の書状(『吉川家文書』)によると、このころ隆房は義隆を討とうとまでは考えていなかったようです。

「若子(※義尊のこと)の事、取り立てるべき心中に候の由、杉・内藤と申し談じ候。この節、御入魂に預り候わば本望たるべく候……(後略)」

義隆には隠居してもらい、義隆の実子である義尊を当主として取り立ててやっていこうという考えだったことがわかります。

しかし、その後家臣の野上房忠、江良房栄、伊香賀房明らを集めて評定を行ったところ、伊香賀房明が「義隆・義尊親子を殺害しないかぎり乱は収まらないだろうから、大友晴英を迎えて当主に据えるのがよい」と発言しました。隆房の当初の計画からは変更することになりますが、隆房も同意。こうして義隆父子を排除することが決定したのです。

隆房挙兵(天文20(1551)年8月28日)

隆房が主家簒奪を企てていることはもはや山口じゅうの人々の知るところであり、義隆自身もただ遊び暮らして待っていただけではありませんでした。毛利には書状を送って「有事の際は頼むよ」と根回しし、出奔した武任を呼び戻して対策をとろうとしていたようです。

また、大友義鎮にも密書を送って義隆側についてほしいと要請していたようですが、時すでに遅く……。すでに隆房が周辺への根回しを済ませた後であり、誰も義隆に力を貸そうとはしなかったのです。

天文20年(1551)8月。大友の使者と将軍・足利義輝の使者が山口を訪れ、義隆は築山館で連日酒宴を開き歓待していました。

隆房が挙兵したのはちょうどそのころ。8月28日のことでした。隆房が山口へ攻めてくることを知った義隆は、軍議を開くため杉重矩や内藤興盛を呼びますが、出て来るはずがありません。彼らはとうに隆房の側についているのです。

冷泉隆豊は寝返った杉重矩を誅殺すべきと主張しますが、ことここに至っても「60を過ぎた分別のある興盛が若輩者に従うはずがない。むしろうまく事態を収束させてくれるだろう」などと言う始末。「自分の母は内藤の出だから……」と身内を大切にしたい思いもあったようですが、隆豊も「もうすぐ討たれようかというときに何を悠長な」と思ったことでしょう。

ほら貝の逸話

義隆は逃亡の際、兵が集まらないことにいら立ちました。挙兵から一夜明けて兵はすでに半分以下に減っていたと言います。義隆は北山の法泉寺へ逃れました。

義隆は自らほら貝を吹いて兵を呼ぼうとしますが、待てど暮らせど兵はやってきません。何度か繰り返したあたりで義隆は悔しいやら腹が立つやら、ほら貝の口を噛み破ってしまいました。

もう音を出すことができなくなったほら貝は法泉寺の池に投げ捨てられ、以後この池の甲斐はすべて口が欠けたものしかいなくなったと伝えられています。

大寧寺の変の要所マップ。色が濃い部分は長門国。

義隆は大寧寺で自刃

29日、義隆は寵愛していた室・おさいの方と別れ、冷泉隆豊ら複数の家臣、そして二条尹房(ただふさ)らの公卿たち総勢十数人で逃れました。そのうち別の道を行った二条尹房は敵に見つかり斬殺されたそうです。関白にまでなった人物でしたが、悲惨な最期を迎えました。

そのほか多くの公家たちが陶軍に殺されており、やはり義隆が公家をもてなし遊び耽っていたことが腹に据えかねていたのだと思われます。

9月1日、義隆は数人の家臣とともに長門の仙崎へ入り、そこから海路で逃れようと考えますが、雨風が強く断念。そこで長門深川の大寧寺に向かいます。一同はもはやここが最期の地と覚悟を決め、風呂で行水をして身を清めて住持と対話し、それぞれ戒名を授かります。

このとき義隆が詠んだとされる辞世の句は、「討つ人も討たるる人も諸ともに如露亦如電応作如是観(にょろやくにょでんおうさにょぜかん)」というもの。

義隆は冷泉隆豊の介錯で自刃しました。家臣らは義隆の首が陶軍に渡らないよう、亡骸に障子などを積み重ねて火を放ち、それぞれ本堂を飛び出して討死しました。

隆豊の壮絶な最期

それぞれ壮絶な最期を迎えますが、中でも強烈な印象を後世まで伝えているのが隆豊です。

深手を負った隆豊は流れる自分の血で辞世の句をしたため(「見よや立つ煙も雲も半空(なかぞら)にさそい風の音も残らず」)、立ったまま割腹して内臓を引きずり出し、経堂の天井に投げつけて最後にのどを突いて果てたと伝えられています。

敵の手で殺されまいと経堂に入って自刃した隆豊。この経堂は焼失を免れ、現在も当時の古材の一部が残されています。死にざまで逆賊への怒りを見せつけ、後世まで語り継がれているのです。

その後の大内

さて、義隆が自刃して果てた後、散り散りに逃れた人々も多くが陶軍に捕らえられ殺されました。義隆の子・義尊もそのひとりです。これで当主の家系は途絶えてしまいました。

隆房は義隆の養子であった大友晴英(大友義鎮の弟)を大内氏の当主の座に据え、彼の名から一字賜って以後は「晴賢」と称します。その後、晴英は「義長」と改名。

晴賢は大内の実質的なトップとして実権を握るようになりますが、それも長くは続きません。毛利は晴賢に同調しておきながら「主君を討った武将なんて……」と大内から離れていったため、対立することに。

クーデターの首謀者である晴賢は天文24年(1555)の厳島の戦いで毛利に敗れて自刃し、大内家中は統率がとれずに内側から崩壊。そして最終的には毛利の手により、大寧寺の変からわずか6年ほどで滅亡してしまうのでした。

この時代の戦国大名は下剋上で成り上がっていった者も多く、反逆が“悪”だとは一概に言えないところがあります。隆房自身は「天道の計らい」といって合理性を主張しました。先述のとおり毛利は反逆に否定的な態度でしたが、一方で立花道雪のように、隆房の行動を肯定的に捉える者もありました。


【参考文献】
  • 米原正義編『大内義隆のすべて』(新人物往来社、1988年)
  • 桑田忠親『毛利元就のすべてがわかる本』(三笠書房、1996年)
  • 利重忠『元就と毛利両川』(海鳥社、1997年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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