光秀が築いた名城・近江坂本城はどのような城だったのか
- 2019/12/13
明智光秀が建てたとされる城は、坂本城・亀山城・福知山城などがありますが、最初に建てたのが近江坂本城です。光秀は坂本城主になって以降、丹波国を平定して亀山城の城主にもなりましたが、同時に坂本城の城主でもあり続けました。そんな光秀ゆかりの城・坂本城に関するお話です。
光秀と坂本城
比叡山焼討ちの功績で近江国志賀郡を賜る
光秀と坂本城の縁は元亀2年(1571)9月の比叡山延暦寺焼き討ちです。信長家臣の中で一番の功労者は光秀であったと言われています。その功績によって信長から賜ったのが、近江国志賀郡でした。その後、12月には光秀は幕臣としてこれまで仕えていた将軍・足利義昭に暇乞い(=別れをつげること。)をしています(※『神田孝平氏所蔵文書』による)。信長から所領を賜ったことが、義昭と決別するひとつのきっかけになったと考えられます。
ほぼ同じ頃には坂本城の築城も開始。これまでは森可成亡き後の宇佐山城を居城としていましたが、翌元亀3年(1572)には坂本城が完成したとみられ、程なくして移ったと思われます。
信長の家臣団の中では新参者の光秀ですが、城持ちになるまでがとにかく早かった。羽柴秀吉が同じ近江の長浜に城を築いたのは天正元年(1573)のことで、坂本城完成の約1年後です。光秀はわずかに先んじていました。
光秀がいかにものすごい勢いで信長の信頼を勝ち得ていたことがわかります。
安土城に次ぐ豪華な城
宣教師のルイス・フロイスも著書『日本史』のなかで坂本城について触れています。当時もっとも絢爛豪華・豪壮華麗な城といえば信長の安土城でしたが、フロイスは坂本城をそれに次ぐものであると記しています。フロイスによる坂本城の評価は以下のとおり。
「かの大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものに次ぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった」
フロイスは光秀の性格については酷評しているものが多いのですが、築城については「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主」であると評価していました。
辛口な評価が多いフロイスのことですから、この評価や坂本城についてのコメントも特に誇張したものではなかったでしょう。現在はその当時の姿を見ることはできませんが、美しい名城であったことがうかがえます。
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坂本城の立地の特長は?
坂本城があったとされるのは、近江国志賀郡坂本。現在の滋賀県大津市下阪本三丁目にある坂本城址公園内に石碑が建てられています。琵琶湖のほぼ南端に位置し、南には大津、北には堅田、背後には比叡山がある。城は琵琶湖に面しており、すぐ後ろには山脈という立地は、防衛上かなり有利でした。背後に比叡山があるということ。これは延暦寺を見張るという理由もあったようです。
京へ行き来しやすい
光秀は志賀郡を与えられてのち、京都代官にもなっています。近江だけでなく京にも常に目を向ける必要がありました。坂本からは、今道越で京の東山に位置する粟田口に通じている。坂本は京とも行き来しやすい土地だったのです。光秀は後に丹波の亀山城主にもなっていますが、都には坂本のほうが近く、また主人・信長の居城である安土城にも近かったことから、丹波平定後も坂本城を主な拠点としていたのでしょう。
安土城に最も近い城
安土城が建てられたのは坂本城築城の4年後、天正4年(1576)のことでしたが、信長家臣団の居城のなかでは、光秀の居城坂本城が最も近い場所にありました。どちらの城も琵琶湖近くにあり、湖を船で渡って直接入城できたようです。琵琶湖周辺には坂本城、安土城、長浜城など相次いで城が建てられており、信長がいかに琵琶湖を制することに注力していたかがわかります。近江は信長にとって重要な地でした。なかでも要衝である坂本の地を光秀に与えられたことで、信長が光秀にかなり期待を寄せていたことがうかがえます。
坂本城の構造は?
坂本城は解体されてバラバラになっており、現在は城址の石碑が公園に残るのみで、当時どのような城であったかを目で見て知ることはできません。ですが、当時の記録から大体どんな城であったかを知ることは可能です。安土城に先駆けて築かれた「天守」
坂本城と同時代に建てられた城で豪華な城といえば真っ先に「安土城」が思い浮かべられます。坂本城の天守はこれより先に建てられていました。五重以上の巨大な天守が初めて造られたのは安土城が最初といわれていますが、光秀が建てた坂本城天守もなかなかすばらしいものだったようです。
坂本城が落成する2日前、坂本を訪問した吉田兼見は、坂本城を見たときのことを『兼見卿記』に記しています。
「城中天守作事以下悉く披見也、驚」
この記録から、坂本城には天守が築かれていたことがわかります。「驚」という部分からは、兼見もびっくりするほどの立派な天守であったことが伺えます。今は跡形もない坂本城ですが、兼見のこの記録により、戦国当時は天守が築かれていたことが確認できます。
確証はありませんが、天正10年(1582)の正月に津田宗及らが坂本城の小天守で茶会をしたという記録もあるようで、このことから坂本城は大天守・小天守が並ぶ城であったともいわれています。
琵琶湖に面した水城
坂本城は琵琶湖に面しているだけでなく、城に湖水を引き入れた水城であったとされています。光秀の茶の湯の師匠であった津田宗及(つだそうぎゅう)の記録『天王寺屋会記』によれば、坂本城から直接船に乗り込み、そのまま安土城へ向かうことができたようです。発掘調査により明らかになった城郭
坂本城は長らく城の正確な位置や構造が不明とされてきましたが、1979年に発掘調査が行われ、明智秀満が天守に火を放った当時のものとされる焼土層が発見されたほか、城の縄張りについてもわかってきました。本丸、二の丸、三の丸の大体の城郭がはっきりしたとされています。ところが、2018年11月に新たな調査を行ったところ、今まで坂本城の範囲だとされていた箇所から痕跡が見当たらず、琵琶湖岸から西に300メートル近く、といわれていた範囲よりもかなり小規模である可能性が示されています。
そうはいっても、1979年当時の発掘調査は無駄ではなく、このエリアからは大量の瓦や壺、青磁・白磁などの高価な遺物まで発掘されています。
当時坂本城のものであったと思しき軒丸瓦は、細川藤孝の居城であった勝竜寺城(しょうりゅうじじょう)のものと型が同じであることがわかっています。また、舶来品の高価な陶磁器が出土したことについて、これが光秀のころのものとは断定できないものの、坂本城には贅をつくした品が多数保存されていた可能性が示されました。
解体された坂本城はどこへ
光秀が敗れた後、坂本城は秀満が火をかけて落城し、再建されたものの、その後この地には同じく水城の大津城などが築かれました。このとき坂本城は廃城となり、解体されて多くの資材は大津城に再利用されているようです。しかしこの大津城もすでになく……。大津城のゆくえをたどってみると、彦根城に行きつきました。彦根城の天守は大津城の天守を転用している可能性があると1957年の彦根城天守解体修理の際に示されたのです。
もしかすると、彦根城の天守は大津城のその前の坂本城時代のものかもしれない。今や跡形もない坂本城ですが、めぐりめぐって彦根城にその痕跡が残っている。その可能性も捨てきれませんね。
【参考文献】
- 芝裕之編著『図説 明智光秀』(戎光祥出版、2019年)
- 毎日新聞「大津教委 坂本城の範囲狭く? 発掘調査で痕跡確認できず」(2018年11月14日)
- 二木謙一編『明智光秀のすべて』(新人物往来社、1994年)
- 滋賀文化財だより「61.近江坂本城跡の発掘調査〈速報〉」(1979年)
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