将軍・足利義昭の流浪の旅 ~信長に京を追放されてから亡命政権(鞆幕府)に落ち着くまで~

追放後に若江、由良など、足利義昭は流浪の旅において何をしていたのか…
追放後に若江、由良など、足利義昭は流浪の旅において何をしていたのか…
 元亀4年(1573)、室町幕府15代将軍・足利義昭は二条御所を出て槙島城に移り、織田信長に対して挙兵しました。しかしおよそ7万の兵に囲まれ、あっという間に降伏開城。その後、京都を追われてからも打倒信長を誓いながら各地を転々。最終的に義昭は毛利輝元を頼って備後国の鞆(現・広島県福山市)に動座しています(鞆幕府の樹立)。

 今回は信長に敗れた後の義昭の流浪の旅についてお伝えしていきます。

京都より若江城へ

なぜ信長は義昭を滅ぼさなかったのか?

 親子、兄弟同士であっても生き残るために殺し合うのが戦国時代の文化です。下剋上のために主君を裏切り、殺害することも決して珍しいことではありません。それは室町幕府の長である将軍といえども同様でした。実際に6代将軍・足利義教や、13代将軍・足利義輝の2人は、臣下に命を取られています。

 反信長連合の旗印のような存在である義昭が、挙兵した結果、信長に降伏することになったにも関わらず、信長が義昭に切腹させなかったのはどのような理由があったからなのでしょうか?

 信長は義昭の降伏の条件として、槙島城の明け渡し、義昭の京都追放の他にもうひとつ、義昭の子である義尋を人質として引き渡すように要求しています。

 こうして明らかに義昭は負けを認めたことになり、それは全国に広まることになりました。一般的にはここで室町幕府が滅亡したことになっているのです。


 さらに信長は朝廷に改元を願い出て、元亀4年(1573)7月28日より「天正」と改元されました。信長にとってはそれで充分だったのでしょう。将軍である義昭を殺してしまうと世間の非難を浴びることになり、逆に連合側の結束を固める危険性もあります。むしろ戦略面に疎い義昭が生きて連合側をまとめようと必死になった方が、弱体化させられると考えたのかもしれません。

 もはや将軍義昭は信長の脅威ではなくなっていたのです。

なぜ義昭は若江城へ向かったのか?

 7月19日に降伏した義昭は、同21日には若江城に入っています。

 斡旋したのは、本願寺光佐(顕如)だったようです。義昭は槙島城を出た後、枇杷庄で一泊し、翌日は河内交野郡津田城に入りました。落ち武者狩りの危機に遭いながらも、命からがら若江城に移ることになったのです。義昭は貧乏公方と嘲笑されたという記録も残されています。

 なぜ行き先が若江城なのでしょうか? 若江城の城主は三好義継であり、畿内に覇を唱えた三好長慶から家督を継いだ三好家当主です。実は三好義継は、かつて13代将軍・足利義輝(義昭の兄)を殺害した主要メンバーのひとりだったのですが、信長と義昭が上洛して以降は服従し、信長の仲介によって義昭の妹を娶っていました。つまり、義継は義昭の妹婿という関係にあったのです。

 義昭が信長に反発するのに合わせて、義継もまた反信長連合に加担するようになります。義昭が京都を追放された後、若江城の義継を頼ったのは当然の流れだったのではないでしょうか。

 しかし、義昭を匿った義継は、信長の標的となっていきます。

若江城から堺へ

義昭が頼りにしていた毛利家の動向

 同年7月、8月と、義昭は若江城から頻繁に西の強国・毛利氏に御内書を遣わしています。武田信玄や朝倉義景、本願寺顕如、浅井長政らと手を結び、上洛して信長を倒してほしいと依頼したのです。

 4月に信玄は死去していましたが、その情報を義昭が入手したのはかなり後のことだったようですね。ちなみに8月には朝倉氏も浅井氏も信長に滅ぼされています。

 毛利氏としては信長と全面的に争う姿勢はなかったようです。むしろ義昭が帰京できるようにと信長に頼んでいるのです。この交渉で活躍したのは朝山日乗でした。日乗は信長から義昭帰京の承諾を得ることに成功します。

 ただ、それに全く納得しなかったのが当の義昭でした。義昭は信長の勢力が駆逐された京都に帰ることを望んでいたからです。信長が支配する京都に戻っても、将軍としての権威はまったく再興できないとわかっていたのでしょう。

義昭帰京の交渉の場となった堺

 信長が許可をしても、義昭が納得しないので周囲はかなり困りました。そこで秀吉は堺で義昭を迎え、説得を試みます。この場には日乗の他、毛利氏の代表として安国寺恵瓊もいました。

 しかし説得は失敗に終わっています。義昭は自身が帰京する条件として、信長から人質を出すように要求したためです。秀吉は呆れかえって大坂に帰ってしまいました。秀吉は「さっさとここから好きなところに行ってしまわれるがいい」と言い捨てて行ったといいます。

 一方で恵瓊としても義昭を毛利氏に迎え入れることで、信長と敵対する事態になるのは許されません。そこは恵瓊も正直に義昭に話をしたようです。

 ちなみに、義昭が若江城から堺に移ったのは11月5日のことです。義昭がいなくなった若江城はすぐに信長に攻められ、義継は滅ぼされてしまいます。


堺から由良へ

一端は由良に落ち着く

 恵瓊は西国に義昭を連れて帰るわけにもいかず、紀伊の由良へ義昭を誘導することになります。

 義昭は20人ほどの供を従え、小舟に乗って紀伊に渡り、由良の興国寺に滞在することになりました。その頃には、若江城主だった義弟の義継はすでに切腹して果てています。

 義昭はここからおよそ2年間、興国寺で打倒信長を画策し続けました。上杉謙信を中心として、武田氏、徳川氏、北条氏、島津氏などに御内書を遣わし、和睦や義昭上洛に協力するように依頼しています。その間の信長ですが、もはや義昭など眼中に無かったようで、ほとんど話題にも出さず、放置しています。

 信長は一進一退を繰り返しながらも、着実に勢力を拡大し、伊勢長島の一向一揆を殲滅、さらに長篠の戦い(1575)で武田氏を叩きました。そして義昭の官位である従三位征夷大将軍兼権大納言に並び、従三位権大納言に叙任されることになります。

御内書がまったく書かれなくなった空白の期間

 ただし、義昭は天正2年(1574)4月を最後にして、御内書を書いていません。信長が官位で義昭に並ぶのは天正3年(1575)11月のことですから、それ以前に、義昭は今の立場では御内書を方々に遣わしてもあまり効果がないことを悟ったのかもしれません。

 だからといって打倒信長を諦めたわけではなく、毛利氏には”下向したい”という希望を何度も伝えていたようです。毛利氏の影響力を利用することで、自分の存在感を高めることができると考えたのでしょう。しかし毛利氏側は、信長の許可を得てからと返答し、濁してきました。

 天正4年(1576)2月、義昭はついに強行策に出ます。毛利氏の勢力下にある備後に向かうことを決め、毛利氏の許可を得ることなく、勝手に由良を後にしてしまったのです。こうなると毛利氏としても受け入れざるを得ない状況となります。

 そして同年4月、義昭は備後の鞆に到着。ここが流浪の旅のゴールの地となります。

おわりに

 どんどんと居場所を失っていく義昭と対称的に、信長は天下人の階段を着実に登っていっています。しかし、それでも義昭は諦めずになおも食い下がりました。毛利氏の後ろ盾を得ることができ、義昭は再び活性化するのです。

 利用価値も無くなり、脅威でも無くなった義昭に対し、信長はまったく興味を示さなくなっています。それよりもはるか未来に信長の目は向けられていたからでしょう。

 この期に及んで、義昭の上洛に協力しようと考えている人たちはどのくらいいたのでしょうか? もしかすると本気で考えていたのは義昭ただひとりだけだったのかもしれません。


【主な参考文献】
  • 谷口克広『信長と将軍義昭 提携から追放、包囲網へ』中公新書、2014年。
  • 奥野高広 『人物叢書 足利義昭』吉川弘文館、1989年。

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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