【家紋】徳川の側近は「本多」だらけだった? 元祖「葵の紋」の持ち主たち

 日本史上最長の武家による政権となった徳川幕府。265年にも及ぶ長期政権の礎を築いた徳川家康は、戦国の世を終わらせた最後の覇者といっても過言ではないでしょう。そんな家康を支えたのは、多くの優秀な家臣たちでした。実戦部隊として最前線で戦い続けた猛将や、智謀や軍略をもって重要なアドバイザーを果たした参謀役等々、その覇業には多彩な人材が必要不可欠の存在でした。

 そんななか、徳川家中でひとつの氏の名が特によく見受けられることに気が付きます。その名とは「本多氏」。家康本来の国である三河地方と深いゆかりのある一族で、「本多」を名乗る幾人かの武将が徳川家では重要な役割を担ってきました。

 今回はそんな、徳川幕府成立に多大な貢献をした本多氏の家紋についてのお話です。

「本多氏」とは

 本多氏は家康の氏である松平氏に古くから仕えてきた、三河地方の譜代の一族でした。源流は藤原北家顕光流に遡るとされ、祖先が豊後国(現在の大分県あたり)の本多郷という土地を領したことに由来する氏の名と伝わっています。

 南北朝時代に尾張の土地を拝領したことから三河地方に土着したともいわれていますが、その詳細は不明位となっています。

 三河地方にはこの「本多氏」が多く、家康の配下にも本多を名乗る武将を幾人も確認することができます。そのうち特に有名な二人をご紹介しましょう。

 まず一人目は「本多忠勝」。「徳川三傑」とも「徳川四天王」とも称される最古参クラスの家康家臣であり、猛将としてつとに名高い人物です。

本多忠勝のトンボ両断イラスト

 「天下三名槍」の一筋である「蜻蛉切り」の遣い手としても知られ、大きな鹿の角をあしらった兜や巨大な数珠を懸けた鎧、数々の武勇を示すエピソードで人気の戦国武将でもあります。かつて「家康に過ぎたるもの」のひとつに例えられた勇猛果敢な忠臣であり、戦国の世には欠くべからざる武断派の筆頭として、まさに生粋の武人ともいえる側近でした。

 そしてもう一人が「本多正信」。忠勝家と正信家のどちらが本多宗家なのかという議論もありますが、正信はもともと家康の「鷹匠」から身を興した人物です。

本多正信の肖像画(佐々木龍泉 筆、加賀本多博物館所蔵)
本多正信の肖像画(佐々木龍泉 筆、加賀本多博物館所蔵)

 桶狭間の戦い(1560)では家康配下として従軍しましたが、その後の三河一向一揆では家康のもとを離反し、敵対することとなります。以後は松永久秀に仕えますが、やがて「徳川十六神将」の一人である「大久保忠世」の仲介で本能寺変までには徳川家への帰参が許されたと考えられています。

 正信は武闘第一というタイプではなく、冷静で大局的な視点をもった参謀タイプの人物だったようです。一度は自身のもとを離れて敵対したにもかかわらず、家康は舞い戻った正信を軍師のように遇して深い信頼を寄せたといいます。幕府が開かれてからは政治上の中枢に参画するようになり、二代将軍の「徳川秀忠」にも仕えることとなります。

古くから使われた「元祖・葵紋」

 これら本多氏の家紋としてよく知られているのが「本多立ち葵」とも呼ばれる「丸に立ち葵」のデザインです。

本多氏の家紋「丸に立ち葵」
本多氏の家紋「丸に立ち葵」

 「葵」といえば徳川氏の代名詞ともいえる意匠であり、「葵の御紋」は権威そのものの象徴として長きにわたって用いられるのは周知のとおりです。

 徳川氏の「三つ葉葵」が葉のみを三方向に配したものであるのに対して、本多氏の「立ち葵」はその下に茎のような部分が立ちあがっているのが特徴です。権威化した葵の紋は使用が厳しく制限されたのにも関わらず、一家臣である本多氏が別系統ながら「葵」の紋を使い続けたのは異例中の異例といわれています。

徳川家の家紋「三つ葉葵」
徳川家の家紋「三つ葉葵」

そもそも徳川氏の「三つ葉葵」の紋はその由来がはっきりしておらず、松平氏が根拠とした三河地方には京都の「賀茂神社」の神領があり、その氏子が多かったことから賀茂神社神紋である「二葉葵」をもとにしたという説があります。

 また、歴史としては本多氏の葵紋のほうが古く、徳川氏はそれをモデルにしたことからオリジナルである立ち葵の使用を禁止できなかったという説もあります。

 いわば本多氏の「丸に立ち葵」は「葵の御紋」の元祖である可能性も考えられ、徳川氏にとって特別な家系であったことをうかがうヒントともなっています。ちなみに猛将・本多忠勝は替紋として本多の「本」の一字をあしらった「丸に本文字」というものも使用しています。

本多氏の家紋「丸に本の字」
本多氏の家紋「丸に本の字」(出所:wikipedia

 これは元来、戦陣旗にデザインされたものであり、製作が容易かつ部隊識別が明瞭であったであろうことが推察されています。衣服に紋として使用する場合に丸囲みとしたようで、簡潔かつわかりやすいエンブレムの好例となっています。

おわりに

 家紋にはそもそも、厳密な決まり事や絶対的な法則があるわけではありません。したがって家紋だけで正確な家譜をたどることは難しく、由来に関する伝承はあってもそれが史実であるかはまた別の問題となります。

 知らぬものはないといっても過言ではない徳川の葵についても同様で、本多氏の「丸に立ち葵」はそんな歴史の謎に、大きなヒントを与えてくれる存在でもありますね。


【参考文献】
  • 『見聞諸家紋』 室町時代(新日本古典籍データベースより)
  • 「本多正信頓智の事幷川田八助結城勇力の事」『国史叢書』国史研究会 編 1915 国史研究会
  • 「日本の家紋」『家政研究 15』 奥平志づ江 1983 文教大学女子短期大学部家政科
  • 「「見聞諸家紋」群の系譜」『弘前大学國史研究 99』 秋田四郎 1995 弘前大学國史研究会
  • 『日本史諸家系図人名辞典』 監修:小和田哲男 2003 講談社
  • 『戦国武将100家紋・旗・馬印FILE』 大野信長 2009 学研
  • 『歴史人 別冊 完全保存版 戦国武将の家紋の真実』 2014 KKベストセラーズ

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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