「本多忠勝」戦国最強と称される猛将の生涯と実像とは?
- 2019/05/21
「戦国最強の武将はだれか?」という問いは、古今東西歴史好きの間に論争を巻き起こしてきました。しばしば候補に挙がる人物といえば、「甲斐の虎」武田信玄や「越後の龍」上杉謙信、「第六天魔王」織田信長などが該当するでしょうか。
ただ、注目するべきは、この論争において江戸幕府を成立させた「東照大権現」徳川家康の名前があまり上がらないことです。この理由は単純で、彼の部下には「戦国最強論争」に必ず顔をのぞかせる人物がいるためでしょう。その人物こそが、名槍「蜻蛉切」を振るい、生涯五十数度の戦でかすり傷さえ負わなかったと称される猛将・本多忠勝(ほんだ ただかつ)です。
この記事では天下無双の働きを示した忠勝の生涯を分析し、史料をもとにその実像を紹介していきます。
ただ、注目するべきは、この論争において江戸幕府を成立させた「東照大権現」徳川家康の名前があまり上がらないことです。この理由は単純で、彼の部下には「戦国最強論争」に必ず顔をのぞかせる人物がいるためでしょう。その人物こそが、名槍「蜻蛉切」を振るい、生涯五十数度の戦でかすり傷さえ負わなかったと称される猛将・本多忠勝(ほんだ ただかつ)です。
この記事では天下無双の働きを示した忠勝の生涯を分析し、史料をもとにその実像を紹介していきます。
早くに「猛将」の片鱗を見せる
天文17年(1548年)、忠勝は三河譜代として松平(徳川)家を支え続けてきた重臣の本多家に生まれました。父は本多忠高という人物でしたが、忠勝出生のわずか1年後に今川氏との間で発生した安城合戦において討ち死にしてしまいます。そのため、幼少期の忠勝は叔父の本多忠真に養育されました。
父を失った忠勝でしたが、あまりにも幼い時の出来事であったためか、その影響を特に感じさせず順調に成長したようです。永禄3年(1560年)、当時13歳の忠勝は桶狭間の戦いにおける大高城兵糧入れに参加。これが彼にとっての初陣となりました。
翌永禄4年(1561年)には今川氏の影響下にあった長沢城攻略にも参加し、活躍を見せます。この際に『武将言行録』発祥のある逸話が誕生したとされています。
それは、叔父の忠真が敵を討ち、その首を忠勝の功として取るよう彼に指示した際、「我なんぞ人の手を借りて武功を立てんや」と拒否。その後、「すなわち敵軍に馳せ入り首をと」ったと伝わっています。
もちろん実際にこのようなやり取りがあったかは確かめられませんが、この逸話は幼少の頃より忠勝が勇猛果敢であったことを示すと同時に、本多家そのものがまだ指揮官ではなく、単なる一兵卒でしかなかったことを象徴しているとも指摘されます。
さらに、永禄6年(1563年)に三河一向一揆が発生した際には、本多一族が一揆衆に味方する中で徳川方として活躍を見せ、忠勝の働きは家康の目にとまったとも伝わりました。
こうした働きが認められたのか、永禄9年(1566年)ごろに実施された三河の軍制改革で「旗本先手役」に抜擢。こうして弱冠19歳の忠勝は名実ともに徳川家の一将として数えられるようになりました。
知略にも長け、徳川トップの家臣に
忠勝が勇猛な将であることは言うまでもないかと思いますが、彼にまつわる逸話などを分析していくと「知将」としての側面も強く示されていることがわかります。元亀3年(1572年)には武田信玄が西上作戦を開始。武田軍が上洛の「通り道」として遠江国国見付(現在の静岡県磐田市付近)を通過しようとした際、家康は出陣して戦を構えようと考えます。
忠勝は偵察隊として先行しますが、敵が大軍であることを理由に退陣を主張。結局は忠勝自ら無謀とも思われた退却戦で殿(しんがり)を担当し、家康本隊を無事に逃がすことに成功します。
この一言坂の戦いにおいて、忠勝の手際を目の当たりにした家康は、「まことに我家の良将なり」と称賛したといいます。敵将の小杉左近という人物もまた、狂歌の落書をもって以下のように忠勝を評しています。
「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」
唐の頭とは家康が愛用した唐牛の尾毛で飾った兜を指します。つまり、唐の頭と本多平八(=忠勝のこと)は家康にはもったいないと言っているのです。
その後も三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、家康の伊賀越え、小牧・長久手の戦いなどで常に獅子奮迅の働きを見せ、家康や家臣団だけでなく、他国の諸将にも彼の武勇は轟いていきました。
このように戦場を駆け回り、武勇を轟かせた忠勝は、彼自身の装備も極めて有名になりました。天下三槍に数えられる名槍「蜻蛉切」や鹿の角をモチーフにした兜「鹿角脇立兜」などは特に知名度が高く、現代でも忠勝を象徴するアイテムとして愛されています。
豊臣政権下での忠勝
また、家康が秀吉への恭順を表明してからも活躍を見せ、天正18年(1590年)の小田原攻めに際しては北条方の降伏勧告を担当しました。忠勝はこの任務を首尾よくこなしたと伝わり、秀吉をして「忠勝が知略もっとも良し」と称されたという逸話が残されています。さらに、忠勝は家康の親衛軍団長という立場にもあったため、平時は政事にも参与していました。
確認されている書状によれば、他国大名と家康の取次を担当しており、家臣内だけでなく他国からも徳川家を代表する家臣であると認知されていたようです。
小田原攻めの後の徳川家の関東入国に際しては、上総国(現在の千葉県)10万石を与えられます。
これは徳川家臣団中で井伊直政、結城秀康に次ぐ石高であり、群を抜いているのです。
上総において忠勝の存在は、里見氏や北条氏残党などに対する抑止力として機能しました。
関ケ原でも活躍。江戸幕府後は?
慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いに際しては、井伊直政とともに東軍の指揮を担当。ただ、忠勝自身も戦に出向いて首級を挙げていたという記録が残されており、指揮だけでなく戦闘でも活躍を見せていた形跡が確認できます。戦後は戦での功によって伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)10万石に転封され、旧領の上総国大多喜5万石は彼の次男である本多忠朝に与えられました。ちなみに忠朝への恩賞5万石分は本来は忠勝に与えられたものだったようです。
『大多喜町史』によれば、忠勝は家康から5万石を加増されるところを、かたく辞退したため、代わりに忠朝に旧領が与えられた、といいます。
桑名転封後の忠勝は、初代桑名藩主として領内の整備に尽力しました。戦でも見せた知略を政治に生かし、現代では名君であったという評価を受けています。
ただ、家康の忠臣として文武で活躍を見せてきた忠勝も慶長9年(1604年)ごろから病気がちになり、江戸幕府の中枢からは退くようになりました。
また、同じ本多家でも本多正信・正純父子ら文治派が台頭し、忠勝や榊原康政ら武断派の将が政治から遠ざけられました。そのため、一連の政略は家康による武断派の冷遇であると見なされることもあります。
もっとも、家康の思惑がどのようなものであったとしても、この時期から忠勝が体調を崩しがちであったのは事実です。そのため、病気を理由に家康に対し隠居を申し出ますが、一度は家康による慰留でそれを思いとどまっています。
しかし、やがて眼病にも苦しめられるようになり、慶長14年(1609年)には嫡男の忠政に家督を譲って隠居。その後も体調が回復することはなく、慶長15年(1610年)に63歳で死去しています。
忠勝の遺言と辞世の句は有名で、どちらも主君家康への厚い忠義を感じさせるものです。そのため、晩年は冷遇されたと思われるにも関わらず、忠勝から家康への忠誠心は変わることがなかったのでしょう。
おわりに
最後に、忠勝自身に死を予感させた有名な逸話を紹介して記事を締めたいと思います。忠勝が五十数度の戦でかすり傷さえ負わなかったという伝説を有していることは既に語りましたが、彼は死の数日前に小刀で彫り物を作成している際に手を傷つけてしまいました。その光景を目の当たりにした忠勝自身が「本多忠勝が傷を負ったら終わりだな」とつぶやいたとされ、実際その数日後に病死したと伝わっています。
もちろんこの逸話を史実として鵜呑みにすることはできませんが、晩年の忠勝は病気がちで明らかに衰弱していたことは間違いないでしょう。彼の晩年は「天下無双の武人であっても老いと病には勝てない」ということを我々に教えてくれているのかもしれません。
【主な参考文献】
- 柴裕之『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年。
- 煎本増夫『徳川家康家臣団の事典』東京堂出版、2015年。
- 菊地浩之『徳川家臣団の謎』KADOKAWA、2016年。
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