「第三次川中島(1557年)」別名は上野原の戦い。信玄は謙信との決戦を避ける?
- 2019/05/21
合計5回、12年間にも及んだという武田信玄と上杉謙信の名勝負「川中島の戦い」。一度目の激突は小規模な前哨戦、二度目は200日にも渡る膠着した長期戦となりました。最も有名なのは四度目の激突で、まさに主力同士の死闘になるわけですが、その前にあたる三度目の衝突はどのようなものだったのでしょうか?
本稿では、「上野原の戦い」とも呼ばれている「第三次川中島の戦い」のいきさつや両陣営の動向について詳しくみていきたいと思います。
本稿では、「上野原の戦い」とも呼ばれている「第三次川中島の戦い」のいきさつや両陣営の動向について詳しくみていきたいと思います。
合戦の背景は?
信玄の調略と長野盆地への侵攻
1555年に行われた2回目の川中島の戦いは、今川義元の仲介によって和議を結んだ信玄でしたが、信濃国制圧の野心を捨てたわけではありませんでした。一方で上杉謙信は家臣同士の諍いなどに呆れ果て、隠居して出家すると言い出し、春日山城から行方をくらましました。この隙を突いて信玄は得意の調略によって着々と勢力を長野盆地一帯に拡大していきます。
真田幸隆、小山田虎満に、長野盆地東部の埴科郡尼飾城を攻めさせてこれを陥落。尼飾城は謙信にとって北信濃の重要な拠点でした。さらに信玄は謙信の重臣で箕冠城城主の大熊朝秀を寝返らせ、反乱を起こさせます。
これに対し、出奔していた謙信はやむなく家臣の説得に応じて越後に戻り、軍勢を率いて朝秀を攻めて敗走させています。
葛山城を陥落させる
信玄の調略の手は葛山城の城主である落合氏にも伸びていました。落合氏の菩提寺である静松寺の住職を介して、落合氏一門の中から内通を取りつけました。葛山城は善光寺一帯を守る重要な拠点です。信玄は弘治3年(1557)2月15日、内通者を巧みに利用して葛山城を陥落させました。信玄は深雪で謙信が動けない時期に善光寺を掌握し、さらに高井郡の井上氏、市川氏を味方につけます。謙信方の島津忠直は本領の長沼城を捨てて難を逃れ、次いで飯縄社は信玄に降り、戸隠社の三院の衆徒らは越後へ逃れました。
このように信玄は完全に謙信との和睦を無視し、着々と北信制圧を進めていきました。三度目の川中島対決が訪れるのは必然であったといえます。
第三次川中島の戦いの経過
武田軍が高梨政頼の飯山城へ迫ってきたため、謙信は高梨氏からしきりに援軍要請を受けていましたが豪雪のために出陣が遅れ、4月18日になってようやく国境を越えて信濃入りしています。進軍中、山田の要害(上高井郡高山村)や福島(須坂市)を武田方から奪取して、21日には善光寺に到着しました。信玄本陣の場所ははっきりしていませんが、深志城と推測されています。謙信はそのまま葛山城を攻め、25日には破却されていた旭山城を再興し、本陣としました。信玄は決戦を避けて川中島から兵を退き、北安曇郡の国境付近の諸城を侵略したようです。信玄にかわされた謙信はいったん飯山城に引き返します。
謙信は5月12日には高坂(上水内郡牟礼村)を攻めて近辺に放火し、続けて翌13日には坂木・岩鼻(埴科郡坂城町)まで攻めましたが、信玄は衝突を回避しています(『上越市史』)。
6月に入り、謙信は飯山城に本隊を戻し、野沢の湯(下高井郡野沢温泉村)に兵を進め、市川藤若を攻めました。市川氏は信玄に援軍を要請しており、これに対して信玄も6月16日と23日の2度に渡り、援軍派遣に関する内容の書状を送っています。結局、謙信は市川氏を降すことができず飯山城に引き返しました。
7月初旬には信玄は安雲郡から善光寺へ本陣を移し、春日氏や山栗田氏を投降させ、尼飾城の小山田虎満に油断しないように指示しています。さらに謙信方の飯森春盛らが守備する平倉城を陥落させました。
そして、8月19日に上野原で両軍がついに衝突したようですが、詳細は不明で、主力同士の衝突はなく、前線部隊の局地的な小競り合い程度だったと考えられています。ですから双方に甚大な被害はなかったようです。なお、上野原の位置については諸説ありますが、上水内郡長沼(長野市)の説が有力とされています。
将軍義輝の仲介による和睦
この頃の中央政権は三好長慶が管領の細川氏綱と共に実権を握り、13代将軍である足利義輝は京を追われていました。義輝は支援者として謙信に期待していましたから、一刻も早く信玄との交戦を終わりにしてほしかったのでしょう。謙信と信玄の両者にはじめて御内書(将軍が発給する書状)が届けられたのが、第三次川中島の最中の6月のことで、将軍からの和議の働きかけに対し謙信は承諾しました。
こうして9月には謙信が越後に帰国、10月には信玄も甲府に帰国しています。義輝の働きがけは見事に成功したのです。
おわりに
主力同士の激突をとことん回避した信玄は、結果として安雲郡を掌握し、高井郡についても高梨氏を飯山城まで後退させ、川中島四郡一帯をほぼ掌握することに成功しています。 一方の謙信は、うまくかわされた格好で、特に目立った成果もありませんでした。しかも信玄は和議の条件として、小笠原氏が務めていて空位になっていた信濃守護職を求めており、将軍である義輝に認められています。地道な調略も功を奏し、こうして信玄は名実ともに信濃国の支配者となったのです。
【主な参考文献】
- 磯貝正義『定本武田信玄』(新人物往来社、1977年)
- 平山優『武田信玄』(吉川弘文館、2006年)
- 柴辻俊六『信玄と謙信』(高志書院、2009年)
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