「どうする家康」『徳川実紀』『三河物語』が記す関ヶ原合戦…西軍はなぜ東軍に敗れたのか
- 2023/11/13
大河ドラマ「どうする家康」第43話は「関ヶ原の戦い」。「どうする家康」最大の見せ場であろう、関ヶ原の戦いが描かれました。
慶長5年(1600)9月1日、徳川家康は、上方で挙兵した石田三成ら西軍を打ち破るべく、江戸を出立します。その直前、徳川家臣の石川家成(石川数正の叔父)は家康を諌めたようです(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書『徳川実紀』)。
石川家成:「今日は、西塞であり、兵書(兵法書)によると、出陣は重い禁忌。出立を延期すべきです」
ところが家康は
家康:「西が塞がれている故、私は東より行きて、これを開くのだ」
と反論し、軍馬を進めたとのこと。9月11日には、熱田に到着した家康軍。そこに参上したのが、先発していた藤堂高虎でした。高虎は小山(栃木県小山市)にある時、家康に
藤堂高虎:「この度、先陣を承った諸将は、皆、豊臣恩顧の者たち。一時の義により(家康に)味方したとも考えられる。心中は測りがたし。私が報せるまでは、江戸を御出馬あるべからず」
と言上したといいます。しかし、豊臣系諸将が西軍の織田秀信(信長の孫)が籠る岐阜城を早々に陥落(8月23日)させたことから、高虎は「早々に御出馬あるべし」と家康に申し上げたとのこと(『徳川実紀』)。
9月11日、清須城に到着した家康は、同月14日には美濃国赤坂(岐阜県大垣市)に着陣。そして、同日には岡山(大垣市)に本陣を置きます。
一方、石田三成らは大垣城にありましたが、突如、家康の大軍が姿を現したことに驚き「城中狼狽」したとされます。「味方」である南宮山の毛利秀元、松尾山の小早川秀秋らを支えるべく、夜中、三成らは大垣城から関ヶ原に向かうのでした。
そして、9月15日。「敵味方二十万に近き」大軍が関ヶ原に陣取り、合戦となるのです(関ヶ原の合戦)。しかし、ご存知のように、戦いは、徳川方(東軍)の勝利に終わります。
- 「上方の勢(西軍)は、軍将の指揮も思い思いで、はかばかしくない」
- 「剛なる徳川方の将卒にきり立てられたこと」
- 「味方のはずの小早川秀秋らが裏切ったこと」
『徳川実紀』は上述のように、西軍の敗因を分析しています。石田三成は戦場より逃亡するも、捕縛され、10月1日、刑場の露と消えました。
『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)は、三成方が家康軍が到着するまでに合戦を仕掛けていたならば、西軍は勝利していたのではないかと推測しています。西軍は、時を逸したというのです。そして、小早川秀秋の裏切りで、西軍は壊滅したと記されています。
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