「井伊直政」家臣に厳しすぎるのが玉にキズ!? 武田軍団の赤備えを引き継いだイケメン名将

「井伊」と聞くと反射的に「直弼」と思い浮かべてしまう人は多いだろう。言わずと知れた幕末の大老である。彼の先祖にして、彦根藩の礎を築いた井伊直政(いい なおまさ)は徳川四天王の1人でありながら意外にマイナーな存在であるようだ。

直政は寡黙な性格であったと言うが、史料にはその切れ者ぶりが満載であった。雄弁な史料が描き出す井伊直政の生涯を見てみよう。

今川家臣だった井伊家

井伊直政は永禄4(1561)年、井伊直親を父として遠江井伊谷に生をうけた。幼名は虎松であった。

この頃の井伊家は意外なことに今川氏の家臣であったという。代々井伊谷の国人領主であった井伊家は、直親の従兄直盛が今川義元に仕えていた関係で今川方についていた訳である。

ところが永禄3(1560)年の桶狭間の戦いで、あろうことか、主君義元が敗死し直盛も戦死してしまう。駿河・遠江の大大名であった今川義元の死によって、隣国の三河では松平氏が今川からの独立を急速に進めていた。

当主となった今川氏真はこれに焦ったのだろう。謀反の動きありとして虎松の父・直親を誅殺してしまったのである。

血筋の上では、家督を継ぐ立場であった虎松だが、さすがに齢2才では家督相続は難しかったと思われる。結局、直盛の娘である次郎法師が直虎を名乗り家督を継ぐことになったと言う。

出家

とりあえず直虎が当主となった井伊家であるが、虎松が有力な後継者候補であることに変わりはない。
そのため、今川家は虎松を亡き者にしようと画策するが、今川家臣新野親矩の助命嘆願により許されたという。この後、虎松は母・おひよと共に親矩の屋敷に保護された。因みに、この親矩について井伊家の菩提寺である龍潭寺の住職は「井伊家最大の危機を救った」と評している。

その後、親矩は遠江国衆・飯野連竜らが起こした、いわゆる遠州錯乱において討死したという。またも後ろ楯を失った虎松であるが、その後は親矩の妻のもとで養育されたという。また、一説では親矩の妹・祐椿尼とおひよに育てられたとも言われる。

氏真が跡を継いだ後の今川家は凋落の一途を辿っていた。暗愚という評が定着してしまった感のある氏真であるが、実のところそれほど阿呆ではない。どうも氏真は井伊家が今川から離反しようとしていると信じ込んでいた節がある。

永禄11(1568)年、武田が今川に攻撃を開始したさい、井伊家家老の小野道好は虎松を殺した上で井伊谷の軍勢を率い出撃しようとした。これは今川からの命令であったという。

桶狭間の後、国人らの離反が相次いでいたのは事実であるが、それほど大きな勢力でなかった井伊家にこだわったのは何故なのだろうか。どうやら話は南北朝時代まで遡るらしい。

遠江の井伊谷を治めていた井伊道政は南朝方の武将であり、後醍醐天皇の皇子・宗良親王を井伊谷城にて保護したという。一方、駿河守護であった今川氏は北朝方で、井伊・今川の両氏は対立関係にあったのである。

その後、駿河に加えて遠江の守護となった今川氏は井伊氏を支配下に置いたというわけだ。戦国時代に突入した後の花倉の乱や河東の乱などの動乱時にはことあるごとに今川義元と敵対している。

要は、両家には解消されようのない因縁があったのだ。ただ、井伊の方は今川につくもやむなしという諦念が垣間見えるのに比べ、今川のほうは、「井伊は隙あらば寝返る」と妄信していたという温度差があった。氏真が間抜けでない以上、井伊に疑念を抱くのは当然なのだが、皮肉なことにそのことが井伊の反骨心を刺激してしまったようである。

話を元に戻そう。

小野道好が虎松を討ち取り、井伊谷の軍を動員しようとする目論見は阻止される。井伊家は直政を出家させることを決め、初めは浄土寺に入ったが、後に三河の鳳来寺に移ったという。

万千代

天正2(1574)年、虎松は父・直親の13回忌のため龍潭寺を訪れた。しかし、それは単なる法要ではなく、極秘ミッションの遂行が隠されていた。

『井伊家伝記』によれば、この時、祐椿尼、直虎、ひよ、龍潭寺住職・南渓瑞聞が相談し、徳川家康に仕えさせることに決したと言われる。

おそらく、実のところは以前から家康とのパイプが構築されていて、タイミングを見計らっていたのだろう。
母ひよが家康の家臣である松下清景と再婚し、虎松を養子とすることで還俗させたのである。

やがてその働きが家康の目にとまり、天正3(1575)年、井伊姓に復することを許された虎松は名を井伊万千代と名乗るようになる。万千代はさらに井伊谷の領有を認められて家康の小姓に抜擢されたのだ。

井伊の赤備え

天正10(1582)年、万千代は元服し直政と名乗る。このとき直政は22歳であったという。

元服後の直政の活躍ぶりはめざましい。まずは、本能寺の変の際に直政は家康とともに堺に滞在中であったが、緊迫した状況の中、家康を無事三河に帰還させている。

そして、それに続く天正壬午の乱では、北条との講和交渉により武田の所領である信濃及び甲斐を併合した。それに伴い、武田の旧臣たちの多くが直政の配下につくこととなったのであるが、それを率いて部隊を編成する役目を仰せつかり、士大将となったのである。

この部隊は家康により武田の兵法を継承することが命ぜられていたのであるが、その象徴とも言えるものが、山形昌景の赤備えの採用であった。これ以降、直政の部隊は井伊の赤備えと呼ばれることとなる。

井伊の赤備えの初陣は天正12(1584)年の小牧長久手の戦いであったとされる。この戦いで直政は武功を挙げ、世に知られるようになったという。

戦では長槍を振るい、敵をなぎ倒していく勇猛果敢さを見せ、敵から恐れられた直政であったが、体格は小柄で顔立ちは少年のようであったと記されている。

さらに、普段は柔和で物静かな性格であったというのは少々驚きであるが、この辺り、真田信繁に通ずるところがあるような気がする。

真の猛者というものは、平時は静かなものなのだろう。

徳川四天王

徳川四天王といえば、江戸幕府の樹立に功のあった酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政ら4人の重臣のことを指すことはあまりに有名である。しかしながら意外なことに、この呼称がいつ頃から使われるようになったのかは不明だという。

一次史料にしっかり記載のある呼称は「徳川三傑」の方であるらしい。というのも、『榊原家譜』にその名が出てくるからである。

『榊原家譜』によると、天正14(1586)年9月に家康の名代で上洛した本多忠勝・榊原康政・井伊直政のことを上方の武将たちが誰ともなく「徳川三傑」と呼び出したという。

そして、その翌月にこの3名が家康上洛に随行した際、3名全員が叙位されるという一幕があった。これより一足早く酒井忠次が叙位任官されているのを受けて、巷ではこれら4人を徳川四天王ともてはやすようになったという説も存在する。

直政の働きは四天王の名に恥じぬものであった。天正18(1590)年の小田原征伐では、諸将の中で唯一小田原城内に攻め入るという快挙を成し遂げる。それは、『北条五代記』に「万事にぬきんで合戦し、天下に誉を得後代に名を残せり」と記されるほどの奮闘ぶりだったという。

なんとも凄まじい奉公ぶりであるが、直政にはこの厳しさを家来にも要求する傾向があったという。そもそもは心根のやさしい人物なのであるが、家康のためとあらば心を鬼にすることにしていたのだろう。

そのため、家臣にも厳しく、わずかな失敗で手討となった者すらいる始末であった。そして、家臣と気安く話をすることも稀であったというから、家臣からは相当に恐れられていたことは間違いない。「人斬り兵部」というありがたくない渾名まで頂戴している。

同年8月、家康が関東に移封され、江戸に入ると直政は上野国箕輪12万石を拝領する。これは徳川家臣団の中で最高の石高であった。

関ヶ原での奮戦

慶長3(1598)年豊臣秀吉が没する。遂に、五大老筆頭であった家康に天下をものにする最大のチャンスが訪れたのだ。

当時直政は番役として家康と京に滞在していた。直政は豊臣政権内で文治派と武断派の政治構想が激化するや、これらの武将との交渉役を引き受ける。むろん、その狙いは有力武将を家康方に引き入れることであった。中でも、黒田如水と長政の親子両名と盟約を結ぶことに成功したのは大きかったのではないか。

黒田家は豊臣政権内では、他の武将から一目置かれる存在であり、彼らの働きにより複数の武将が親徳川に転じている。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは家康本軍において、東軍の軍監となった直政は大規模な調略作戦を実行。竹中重門、京極高次など豊臣恩顧の武将を次々東軍に引き入れたというから驚く。

家康が手紙による調略作戦を行ったことは有名であるが、直政の作戦と相まって相当な成果を上げたようである。関ヶ原本戦では、いわゆる先陣抜け駆け事件なるものが起こったとされてきた。

福島正則が先陣と決まっていたのに、直政と松平忠吉が抜け駆けしたというものである。実際のところは、合戦当日は霧が濃く立ち込めていたことによる偶発的なものに過ぎなかったようだ。さらに歴史学者の笠谷和比古氏によると、合戦後に正則方からの抗議らしきものは確認できなかったという。

この合戦でも直政は鬼のような働きを見せる。合戦の終盤には島津義弘の甥・豊久を討ち取り、返す刀で退去を図る島津軍を猛追。このとき直政の追撃隊はわずか100騎余りであったという。

この猛追で義弘を討ち取る寸前までいったものの、島津軍の柏木源藤に足を狙撃され、惜しくも逃してしまったのである。護衛隊も追い付けぬほどの猛追が生んだ悲劇と言えよう。

関ヶ原以降は戦後処理と幕府樹立のため奔走した直政であったが、足の鉄砲傷が中々癒えなかったようだ。
慶長7(1602)年2月1日、足の鉄砲傷の悪化により直政は没す。享年42と伝わる。

あとがき

直政の死因は、間接的には鉄砲傷によるものであるということは知っていた。しかしながら、直接的な死因については調べたことがなかったので、今回は調べてみることにした。

鉄砲傷は弾丸によって周囲の土埃や雑菌が体内の奥まで運ばれやすいため、感染症が起こりやすいという。そのため、ガス壊疽を起こすこともよくあることらしい。また、火縄銃の弾は鉛でできているため弾が体内に留まると鉛中毒になって死ぬ可能性もあると聞く。

当時から火縄銃による傷は厄介という認識はおそらくあったであろう。にも関わらず、ほぼ単騎で島津への追撃を敢行したのはなぜなのだろう。ひょっとすると、島津は表向きは徳川に臣従しても、腹の底では決して服従しないと踏んでいたのではないか。

そう言えば、家康も死の間際に「儂の遺灰は薩摩の方角に向かって撒け」と言い遺したと伝わる。『武備神木抄』によれば、四天王の1人榊原康政は「大御所(家康)の御心中を知るものは、直政と我計りなり」と語っていたと言うが、なるほどと腑に落ちた次第である。


【主な参考文献】
  • 野田浩子『井伊直政―家康筆頭家臣への軌跡』戎光祥出版 2017年
  • 井伊達夫『赤備え』宮帯出版社 2007年
  • 井伊達夫『井伊軍志』宮帯出版社 2007年
  • 高野澄『井伊直政―逆境から這い上がった男』PHP研究所 1999年

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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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