「島津歳久」は島津四兄弟の中でただ一人、秀吉に屈しなかった計略知略の男だった!
- 2017/11/20
島津家による九州統一が目前にまで迫っていた折も折、九州に上陸した関白・豊臣秀吉と島津家は全面対決に突入しました。島津家が降伏の意を示した後も、島津四兄弟の三男である歳久だけは秀吉に抵抗を続け、ついには怒りを買って自害に追い込まれてしまいます。
祖父の島津忠良(日新斎)から「始終の利害を察するの智計並びなし」と評され、武勇にも優れていた歳久。反骨心旺盛な彼は一体どのような人生を送ったのでしょうか?
祖父の島津忠良(日新斎)から「始終の利害を察するの智計並びなし」と評され、武勇にも優れていた歳久。反骨心旺盛な彼は一体どのような人生を送ったのでしょうか?
結束固い島津四兄弟の三男として
九州の名門、島津家の三男として誕生
島津歳久は天文6年(1537)、島津貴久の三男として誕生します。母は兄の義久、義弘と同じですが、家久とは腹違いの兄弟となります。歳久の幼いころの様子を記した資料は残っていないようですが、長じてからは兄弟が支えあって島津家を盛り立てていることから、切磋琢磨しながら仲よく幼少時代をすごしていたのでしょう。
三兄弟そろって初陣を飾る
歳久の初陣は天文23年(1554)、岩剣城の戦いです。このころ、薩摩北部から西大隅にかけては、父・貴久に反発する勢力が多数存在していましたが、手を組んで島津家に反旗を翻してきたため、そのまま合戦へと突入していきます。貴久は抵抗勢力の一つである入来院の拠点・岩剣城を攻めに行きますが、ここに三兄弟が兵を率いて登場すると、敵軍は恐れをなして引き揚げたと言われています。岩剣城の戦いで島津家は初めての銃撃戦に勝利し、三兄弟は初陣を勝利で飾りました。
兄弟仲に定評のある島津四兄弟。実際は?
長男・義久との関係は極めて良好であったようです。日向を本拠地とした兄・義弘と弟・家久とは異なり、島津家の本拠地・薩摩の守護にあたっていた歳久は義久との親交もあつく、酒宴などでは酒の飲めない兄に代わって盃を受けていたようですね。一方で、腹違いの弟・家久に対しては少なからずライバル意識があったのかな…と思わせるような発言もしています。兄弟4人で連れだって馬追を見学していた時のこと、歳久は馬を見ながら「馬の毛色は母馬に似ていますが、人間も同じでしょうね」と兄たちに言いました。
四兄弟で一人だけ母親が側室だった弟・家久への皮肉です。しかし、兄の義久がうまく切り返したため、丸く収まり、その後も兄弟協力し合ったということです。
「知計並びなく」と評される歳久
祖父である忠良から「終始の利害を察するの知計並びなく」と評価されていた歳久。初陣を皮切りに、武勇にも知略にも優れた武将として数々の戦で活躍していきます。弘治元年(1555)の蒲生城をめぐる戦いでは、左股に矢が貫通するほどの重傷を負っていますが、その後も弟・家久とともに指揮官として戦を率いて出陣したり、島津家の本拠地である薩摩の守護にあたったりと、島津家を支えるのに欠かせない存在となっていました。
しかし、島津家による九州制覇が目前となったころ、目の前に立ちはだかったのが豊臣秀吉です。大友宗麟の要請を受けて九州に乗り出し、天正14年(1586)5月には九州国分け案を示しました。しかし、島津家ではこれを拒否。このとき、唯一、歳久のみが秀吉と戦うのは得策ではないと主張しています。
天正15年(1587)3月、九州征伐のため、大軍を率いた秀吉が豊後に到着。島津勢も奮戦しましたが、次第に勢いをそがれていきます。
島津家では和睦か徹底抗戦かで意見が割れましたが、家久が単独で講和を結びます。秀吉はその後も破竹の勢いで島津を圧倒したため、義久も出家して秀吉に降伏しました。
最後まで秀吉に抵抗、意地を見せる
「迷惑」と秀吉の宿泊を拒否
義久の降伏により、島津家は秀吉に帰順する形となりましたが、歳久は秀吉に抵抗を続けていました。天正15年(1587)の根白坂の戦いで婿養子の忠隣を殺された恨みもあったのでしょう。同年5月に泰平寺を出発して帰途についた秀吉は、今だ恭順の意を示さない義弘と歳久に大軍を見せつけるため、平佐城、宮之城を経由して大口へ向かうルートをとりました。これを見て、病気を理由に出頭を拒んでいた義弘も降伏します。
しかし歳久は、自分の居城・虎居城に泊まりたいという秀吉を「迷惑」と拒否。しかたなく秀吉は虎居城の近くの山崎城に入って歳久の様子を窺いますが、病気と称して挨拶にも来ません。事実、歳久は風疾と言う病気で手足がしびれて動けなかったのですが、偵察に来た秀吉の兵を家臣に討たせているので、秀吉の元に出頭する気ははなからなかったのでしょう。
秀吉の籠に矢を射かける
秀吉はこの歳久のふるまいをとりあえずは黙殺したようです。秀吉一行はその後、歳久の家臣・本田四郎に案内されて祁答院へ向かいますが、どうも道がおかしいことに気が付きます。そう、歳久はあえて険しい山道を案内させていたのです。一行が山の難所に差し掛かったその時、秀吉の輿に何者かが6本の矢を射かけました。秀吉は別の輿に乗っていたので難を逃れましたが、誰がやったかは明白です。秀吉は内心でははらわたが煮えくり返っていたことでしょう。しかし、島津家は既に自分の配下となっていたため、怒りを抑えて帰路に就きました。
朝鮮出兵も病気を理由に拒否
文禄元年(1592)、秀吉の朝鮮出兵が始まったため、兄の義弘がおよそ一万の兵を率いて出兵しました。しかし、歳久は病気を理由に出兵を拒否。秀吉への嫌がらせなどではなく、本当に国元で静養していたようですが、このことが後に歳久にピンチを招きます。家臣の謀反の責を負わされ、自害
秀吉の逆鱗に触れ、兄に追われる
朝鮮出兵の後、島津家の家臣・梅北国兼が一揆をおこし、秀吉に反旗を翻しました。秀吉はこの一揆に歳久の家臣が多く参加していたと知り、激怒します。もし歳久が義弘とともに朝鮮に出兵していたのなら歳久の命は助けるが、そうでなければ首を差し出せ、と義久に朱印状を送りました。これを知った歳久はここで申し開きをしなければ一族の破滅と考え、病をおして兄の元へ出頭。そこで朱印状を見せられた歳久は、居城の宮之城で自害しようと密かに城から船で脱出するのです。
家臣に慕われた歳久の最期
しかし、義久からの追手に阻まれて、宮之城にはたどり着けそうにありません。仕方なく歳久は瀧ヶ水に上陸しました。歳久は付き従ってきた家臣らには逃げるように促しましたが、彼らは「千回同じことを命じられても、生き残るつもりはありません」と歳久から離れようとしませんでした。途中、歳久は自害を試みますが、病のため手足がしびれて自刃できません。石を使ってなんとか腹を割ろうとしてもうまくいきませんでした。
一方の義久からの追手も、涙ながらの追撃でした。歳久は追手の兵に「病のため、自刃できない。面倒をかけるが、近づいてきて首を取れ」と再三声をかけましたが、義久の兵の誰もが涙を飲んでひれ伏し、動こうともしません。
しばらくの後、原田甚次という者が歳久の首を落とすと、斬り合いをしていた敵も味方も皆刀を投げ捨て、木の下や岩の陰に倒れ伏し、声をあげて号泣したといいます。
歳久56歳でした。
兄・義久の悲しみ
自害した歳久の傍らには絶命書がありました。病のため、手足がしびれて筆を執ることができなかった歳久は、右筆に辞世の句を書かせていたのです。晴蓑(せいさ)めが 玉のありかを人とわば いざ白雲の上と答えよ
晴蓑は歳久の出家名です。「歳久の魂はどこへ行ったかと人が尋ねたら、思い残すことなく天に昇ったと答えて下さい」という意が込められています。
これを見た義久は非常に悲しみ、島津家の菩提寺である福昌寺で手厚く供養しました。義久は後年、歳久を悼んでこのような歌を詠んでいます。
写し絵に 写しおきても 魂は かえらぬ道や 夢の浮橋
可愛がっていた弟に心ならずも腹を切らせることになった義久の辛さが伝わってくるような、切ない歌ですね。切っても切れない、兄弟の絆を感じさせられます。
おわりに
島津を守るため、一揆の責任を一人で背負って自害した歳久。自分の信念を決して曲げることなく貫き通した生涯でしたが、その根底には島津家を、そして兄弟たちを守りたいという熱い思いがあったのかもしれませんね。【参考文献】
- 新名一仁『島津四兄弟の九州統一戦』星海社新書 2017年
- 栄村顕久『島津四兄弟 義久・義弘・歳久・家久の戦い』南方新社 2016年
- かごしま観光サイト どんどん鹿児島の旅
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