【家系図】鎌倉以来の由緒を誇る島津氏。子孫にはあの幕末の著名人も!?

薩摩島津氏といえば鎌倉以来の由緒を誇る家柄です。初代の島津忠久以降、薩摩守護職を軸として各国の守護や地頭職をも与えられ、時代の変遷とともに守護から守護大名、そして戦国大名へと脱皮していきました。


戦国時代の島津家は、数多くの合戦で大活躍した島津四兄弟が登場。最終的に秀吉に降伏したとはいえ、もう少しで九州全土を支配するほどの大名でした。


そんな島津一族のルーツは一体どこにあるのでしょうか?今回は薩摩島津氏の歴史とともに、関ヶ原の戦いで名を馳せた島津義弘の家族、子孫等に触れていきたいと思います。


島津氏のルーツ


一説に初代忠久は秦氏の子孫・惟宗氏の流れを汲む貴族・惟宗広言(これむね の ひろこと)の子だといいます。


広言が島津荘の荘官として九州に下りて勢力を拡大し、忠久の代になって源頼朝から正式に同地の地頭に任じられたことで島津姓を称したと伝わります。


しかし、一方で以下のように別の説も存在しているようです。

  • 忠久は惟宗広言ではなく、同じ惟宗一族で惟宗忠康の子とする説。
  • 忠久は源頼朝の落胤とする説。(『島津国史』『島津氏正統系図』など)


どの説が正しいのか定かではないのですが、現在では惟宗忠康を父とする説が最も有力だと考えられています。



上記は初代忠久からはじまる島津氏の家系図ですが、ざっと見た感じではなんやら分家もあって複雑そうです。よくみると、島津四兄弟の家柄はもともとは分家(伊作家)だったことがわかりますね。


次項では家系図と照らし合わせながら、島津氏の歴史を簡潔にたどっていくことにしましょう。


戦国島津氏までの歴史


鎌倉期の島津氏

まずは初代忠久。彼は鎌倉の有力な御家人として源頼朝より薩摩・大隅・日向の3国の守護職に補任されましたが、頼朝の死後、建仁3(1203)年の比企能員の変をきっかけに守護職を没収されました。


おおよそ10年後には薩摩国の守護だけ再任し、一時は越前国の守護職にも就いています。


2代忠時は承久3(1221)年の承久の乱で幕府軍に従軍して功を立て、島津一門が守護をしていた若狭国の守護職を兼任しています。

家督を継いでからは鎌倉に在住して幕政で重きをなし、伊賀・讃岐・和泉などの各地の地頭職も与えられています。


続く3代久経・4代忠宗も鎌倉幕府御家人として重きをなしています。なお、4代忠宗の弟にあたる久長は、薩摩国伊作荘と日置荘、信濃国太田荘の地頭職を父から譲り受けて島津の分家・伊作家の初代当主となっています。島津四兄弟の家柄ですね。


南北朝・室町期の島津氏

5代貞久は鎌倉幕府討幕運動に加わり、幕府滅亡後にはその功績によって初代忠久の頃より失っていた大隅・日向の守護職を回復しています。南北朝期には北朝方として足利尊氏を助けました。


6代目は師久(総州家)と氏久(奥州家)の2人がいますが、これは貞久が2人に分割継承させたからです。その後、島津両家は対立するようになりますが、総州家での内紛勃発をきっかけとして7代元久(奥州家)が明徳4(1393)年にこれを調停します。


島津宗家は奥州家の元に統合される形となりますが、これで総州家との対立がなくなったわけではありませんでした。


応永18(1411)年、嗣子のない7代元久の死の間際、島津一門である伊集院頼久は家督継承を画策します。これを元久の弟・久豊が自ら8代目当主となって阻止しました。


しかし宗家と伊集院氏が対立することになり、さらに伊集院氏に総州家が支援する形となって奥州家と総州家の争いが開始されるのです。ただ、最終的には伊集院氏が降伏して総州家も滅ぶことになっています。


9代忠国の代には守護大名として確立しています。つまりは薩摩・大隅・日向三国の守護職が島津一族に固定化され、その権限も従来の守護よりも大幅に拡大・強化されていったということです。


戦国期の島津氏

10代立久のときには、応仁元(1467)年から約10年にも及ぶ応仁の乱が勃発して乱世の幕開けとなります。立久は東軍の細川勝元に属しましたが、出陣はせずに名目上の参加でした。


11代忠昌の代になると、領国内の有力な分家や有力国衆が叛旗を翻し、島津一族は弱体化の一途をたどっていくことに。
薩州家の島津国久・豊州家の島津季久・相州家の島津友久のほか、伊作家の久逸も反乱を起こして一族同士の闘争がはじまったのです。


あげくの果てに久逸は明応9(1500)年に討死、忠昌も永正5(1508)年に自害となっています。


その後は忠昌の嫡男忠治が12代、二男忠隆が13代となりましたが、いずれも早世したため、永正16(1519)年には三男勝久が14代当主となりました。しかし、政権基盤が弱く、各地の国人勢力を抑える力もなかったことから伊作家の伊作忠良と薩州家の島津実久が台頭するようになります。


勝久は初め、勢力挽回のために薩州家の実久を頼りましたが、実久は専横に及んで家督譲渡まで迫りました。そこで次に頼ったのが、のちに島津氏中興の祖と称えられた忠良(のちの日新斎)です。



この頃の忠良は、母が相州家の運久と再婚したことから伊作・相州両家の家督を相続しており、阿多・田布施・高橋・伊作などを領して賢徳の聞こえも高いものでした。


大永6(1526)年には勝久からの支援要請を受け、子の虎寿丸を養嗣子として送り込みます。この子が島津四兄弟の父・15代貴久であり、ここに戦国島津氏がようやく宗家を継承するのです。



島津斉彬や篤姫は義弘の子孫だった!

次は戦国島津氏の子孫について触れていきます。


慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦のとき、島津氏は西軍に加担して徳川家と敵対関係になります。


ただし、このときは義弘だけが合戦に参加しており、長兄の義久や義弘嫡男の忠恒らは関与しなかったため、島津軍の軍事力が弱まったわけではありませんでした。

このため家康は戦後に島津討伐の軍を動かしますが、うかつに攻撃命令までは出せなかったようです。


島津の退き口のイメージイラスト
島津義弘隊は関ケ原合戦での退却時、敵中突破という前代未聞の事を敢行した。

こうした背景から、徳川に反発しながらも島津氏は慶長7年(1602年)に本領安堵の決定が下されることになります。同時に家督は忠恒が継ぎ、以後の島津氏は薩摩藩として幕藩体制に組み込まれることになるのです。


ここで義弘以降、歴代薩摩藩主の系図をみてみましょう。



上記の系図をみると、かつての大河ドラマの主役となった篤姫、また「西郷どん」でおなじみの11代斉彬など、幕末の著名人も戦国島津氏の血脈を受け継いでいるのが分かりますね。


関ヶ原で徳川に背いた外様大名の島津氏が、江戸時代を通じて茂姫や篤姫の2人もの将軍家御台所を輩出して、将軍家と閨閥を築いたことは異例でしょう。



【主な参考文献】
  • 新名一仁(編) 『中世島津氏研究の最前線』(洋泉社、2018年)
  • 『歴史REAL史上最強の大名 薩摩島津家』(洋泉社、2017年)
  • 三木靖(編)『島津義弘のすべて』(新人物往来社、1986年)

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  この記事を書いた人
戦ヒス編集部 さん
戦国ヒストリーの編集部アカウントです。編集部でも記事の企画・執筆を行なっています。

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