「島津義久」島津四兄弟の嫡男。島津氏の全盛を支えた器量とは?

島津義久のイラスト
島津義久のイラスト
戦国時代に領土を守ることが困難であった武将の中でも、島津家は室町時代から一貫して薩摩の領主として君臨し続けました。薩摩中興の祖として名高い島津忠良・貴久父子の嫡男として生まれた島津義久(しまづ よしひさ)は、祖父悲願の薩摩・大隈・日向の三州統一を兄弟と共に成し遂げました。

やがて秀吉の九州攻略に屈しますが、領土は安堵され、薩摩藩の地盤を固めています。本稿では島津氏の全盛を支え、戦国時代を乗り切った島津義久の生涯をたどっていきます。

生まれた時は島津家抗争の真っただ中

義久が天文2年(1533年)に島津貴久の嫡男として生まれたときは、島津家が本宗家継承者争いのまっただ中でした。幼名は虎寿丸、母親は入来院重聡の娘で雪窓夫人でした。

この後、同じ母親から生まれた弟たちが次々に誕生します。天文4年(1535年)義弘、天文6年(1537年)歳久、異母弟として天文16年(1547年)に家久が生まれます。母親は橋姫と言われています。

合わせた四兄弟がこの後の薩摩藩の基礎を作っていきます。

義久が生まれた時は、まず島津本宗家の継承者争いに父貴久が勝たねばならない戦いの真っ最中でした。伊作・相州家の当主であった貴久は、本宗家第14代勝久に請われて第15代を継承しましたが、薩州家実久によって地位を追われてしまいます。その後の島津家内乱の時代を統治していったのが忠良・貴久父子でした。

初陣は岩剣城攻略:兄弟と共に

忠良・貴久父子が着実に錦江湾沿いを従えていきます。

天文21年(1552年)には朝廷から修理大夫に任命され、守護として中央からも認められた貴久でしたが、領内は安定していませんでした。最後まで大きな勢力であった大隈国を平定させるため、天文23年(1554年)に大隈岩剣城で決戦が行われます。

この岩剣城攻略が義久22歳、義弘19歳、歳久17歳の初陣です。岩が剣のように突き出た断崖絶壁に覆われた堅固な岩剣城を攻め落とすのにおよそ1カ月。祖父忠良をして「兄弟のいずれかが戦死する覚悟がなければ勝利を得られないだろう。」と言わしめたほど苛烈な戦いでした。

父貴久も死を覚悟し、全軍の士気も高まっていました。島津家のお家芸となっていた戦法である釣り野伏せ(伏兵を排した場所に誘い出す戦法)や、火攻め等で粘り強く攻め、夜の岩剣城から城兵が逃げ出して落城となります。これにより大隈国攻略の拠点を確保できることができました。

島津四兄弟の評価

永禄9年(1566年)に貴久の隠居に伴い、義久が第16代本宗家の家督を継承し、本宗家の当主と薩摩・大隈・日向三か国の守護となります。このとき義久34歳。本宗家の跡目を嫡男が継ぐという順調な家督継承でした。

義久は、幼少期はおとなしく武勇を感じさせるような子どもではなかったと言われていました。ただ、祖父である忠良は、「義久は三州の総大将たるの材徳自ずから備わり」と評価しており、将来的には嫡男としての器量を備えていることを見抜いていました。

次男の義弘は武将としての人気が現代でも根強いほどの武勇と人格の持ち主でした。忠良に「義弘は雄武英略をもって傑出し」と言わしめたほどです。九州統一、朝鮮出兵、関ケ原の戦いにおいて、いずれも武勇伝に欠けることのない武将です。義久よりも評価されていたようでしたが、最後まで当主である兄を立てる人格者でした。

三男の歳久は、九州を制圧しに来た秀吉にあくまでも立ち向かう豪の者で、秀吉が乗っていると思われる籠に矢を射かけたことで有名です。忠良には「始終の利害を察するの知計並びなく」と評されていました。

四男の家久は、「軍法戦術に妙を得たり」と忠良に評されている通り、戦上手の武将でした。この後分家する永吉島津家の祖となります。

三州統一への戦い

四兄弟の勢いは九州を席巻していきます。

元亀3年(1572年)には、侵略してきた日向の伊東氏を木崎原で壊滅させます。天正4年(1576年)に高原城も攻略された伊東氏は、豊後国大友氏を頼って逃走し、主要な地頭たちは城を開け渡して降伏し、最後の関門であった日向国はついに島津家の手に落ちます。

こうして島津家の念願であった、三州統一が成し遂げられました。残念ながら、三州統一をなしえたこの時には、忠良も貴久も亡くなっていました。忠良は永禄11年(1568年)、貴久は元亀2年(1571年)に病没していたのです。

伊作・相州家から始まった島津家は、本宗家を継いでからようやくここに至って三州統一を果たしました。貴久がなくなってわずか1年後に三州統一が実現したのです。

九州統一への戦い

日向から逃走した伊東氏は、豊後国大友氏を頼って救援を求めます。島津家と大友家は、友好的な関係を続けてきましたが、ここに至って終焉します。天正6年(1578年)、伊東氏の救援に応じた大友宗麟は、日向への侵攻を始めます。日向高城川原を主戦場として島津軍は大友軍を撃退します。慌てて逃げる大友軍の人馬の多くが、耳川で溺死に至っています。

義久と大友宗麟の関係は、織田信長の勧めで講和に至ります。九州では、肥前の龍造寺・豊後の大友氏、薩摩の島津氏が三大勢力となり、緊張状態が続いていました。講和の仲介をしてくれた信長はすぐに本能寺の変に遭遇してしまいます。

肥前国との戦いは、龍造寺家から攻められた日野氏・有馬氏が、救援を求めてきたことから始まります。天正12年(1584年)に四兄弟は肥後国佐敷に集結します。家久に島原城を攻めさせ、龍造寺隆信を討ち取ります。家久率いる軍勢はたったの3000余。龍造寺家が率いてきたのは6万余りの軍勢でした。島原近郊の沖田畷での家久の快挙となりました。

九州統一ならず、秀吉に降伏

龍造寺家が島津配下となり、九州で島津家に服従しないものは、豊後の大友宗麟・義統父子、筑前岩屋城の高橋紹運、立花城の立花宗虎父子だけとなります。迫りくる島津家の猛威に、彼らは天正14年(1586年)に秀吉に服従し、強力な中央の後ろ盾を得ます。

秀吉は、勅命を奉じて島津氏に停戦を命じますが、秀吉に対して服従心のない島津にとっては意味を成しません。徹底抗戦をするつもりでしたが、天正15年(1587年)3月に、秀吉は20万の島津征討軍を引き連れてきます。秀吉が有明海沿いを、秀長が豊後から南下し、島津に下っていた各地の領主たちを次々と攻略していきます。

人数・装備も勝る秀吉軍に勝てず、4月には羽柴秀長軍を日向根白坂で迎え撃ちますが、大敗を喫します。秀吉の使者の講和説得と内部での話し合いにより、義久は秀吉に降伏します。秀吉は、島津兄弟を許し、領国を安堵します。ただし、義久に薩摩国、義弘に大隈国、義弘の子久保に日向の国をあてがいました。義久に全権を委任する形にはなりませんでした。

この時、四兄弟末弟の家久が降伏した秀長との交渉中に急に亡くなります。毒殺されたと複数の史料で伝えられています。毒を盛った人物と意図はわかっていません。島津から独立して秀長に仕えようとしていた家久を止めようとした島津方の仕業であるとする説と、家久の武勇を恐れた秀長によるものであるとする説とが伝えられています。

義久・義弘は京都まで赴き、秀吉に謁見して歳暮などを送るなどの服従の意を示していました。一方で豊臣政権からの要求は過大であり、人質の差し出し、方広寺大仏殿修造材料の献上や、刀狩り令の徹底、小田原参陣などの負荷が与えられます。秀吉は、義久、義弘、久保(義弘の次男)を1年の交代制で在京させることを命じます。

弟義弘の朝鮮出兵

文禄元年(1592年)の秀吉の朝鮮出兵は島津にとって大きな負担となります。財政難の一面もありましたが、義久は体調が悪いなどとかわし、先んじての朝鮮出兵には至りませんでした。出兵したのは、義弘と久保、従者わずか23騎でした。国許からの援助がなされないまま困窮の状態で義弘は朝鮮出兵を余儀なくされました。

また、義久が出兵させた梅北国兼が名護屋への出兵途中で謀反を起こしてしまいます。秀吉に協力的ではなかった義久に対して秀吉は厳罰を求めますが、家康等に諫められます。結果として、九州征伐の際に秀吉の空籠に矢を射かけたこともある歳久が、梅北氏にもかかわったと判断され自害を命じられます。

文禄2年(1593年)正月に遅れて名護屋に到着した義久は、老齢のための出兵免除を家康にとりなしてもらいます。この時59歳。しかし、2歳年下の義弘も出兵していますから、積極的に朝鮮に行くことは避けたと考えられています。数日後にはすぐに鹿児島に帰還しています。義久は国元でのんびりしていたようにとられることが多いですが、一応名護屋まで遠征してきたことは事実です。

義弘と共に朝鮮に出兵した久保は、義弘の次男でありながら、嫡子のない義久の後継者でした。しかし、文禄の役で久保は病死してしまいます。その弟である忠恒に、久保と結婚させていた義久の三女亀寿を忠恒に再嫁させます。こうして、義久の後継は守られました。

慶長2年(1597年)の2度目の出兵においては、義弘・忠恒は軍功をあげます。泗川の戦いにおいて、明と朝鮮軍に大勝を収めます。この功績をたたえて義弘は刀(政宗)と5万石を加増され、島津家としての体面を保ちました。

関ケ原の戦いを静観する

義久は、天下分け目の関ケ原の戦いに参加していません。慶長5年(1600年)に戦が勃発したときは、国許にいました。

在京当番であった義弘が西軍に参戦せざるを得なくなります。西軍に参戦した義弘は、敗走する際に、敵中突破しながら逃れます。「島津の退き口」と言う名の武勇伝が長く伝えらえました。

義久は、義弘が勝手に参戦したと家康に弁明します。直接の上洛を要望した家康の言をなかなか受け入れない義久に、後継者である忠恒は上洛した方が良いと説き、忠恒自らが上洛します。その結果、家康に島津家の安堵を認められます。

島津家のために戦ってきた義弘に対して、義久の態度は冷たいと感じられますが、島津家の本領安堵のために冷静な義久の心構えが必要だったと考えられています。また、義弘も兄の期待に応えて裏切ることなく従っていた人格者でした。

まだまだ地盤の固まっていなかった家康は、九州を平定するために強力な軍事力と統率力を持っていた島津は敵に回したくないのが本音でした。それほど、島津の力は義久の時には強大になっていたのです。

義久の晩年

家康から再三の上洛を要請されながら、義久は老体や病気を理由に上洛することはありませんでした。義久は、四兄弟で培った強力な支配力を背景に、家康相手に自分のペースを崩すことはありませんでした。

慶長7年(1602年)に家督を忠恒に譲りますが、実権は握ったままでした。その後も薩摩の政治に影響を与えながら、慶長16年(1611年)に国分城で亡くなりました。享年は79。貫明妙谷寺殿と号し、福昌寺に葬られました。殉死者が15人も出たというから、とても家臣に慕われていたのが伺えます。

兄弟や一族の結束のもとで、島津の安泰を支えた義久は、必要な時は拠点から動かず当主らしい貫録を備えた人物でした。島津中興の祖、祖父忠良に「義久は三州の総大将たるの材徳自ずから備わり」と評された一生を送ったのです。


【主な参考文献】
  • 新名一仁『島津貴久 戦国大名島津氏の誕生』戎光祥出版、2017年
  • 三木靖『島津義弘のすべて』新人物往来社、1987年
  • 新名一仁『薩摩島津氏』戎光祥出版社、2014年
  • 栄村顕久『島津四兄弟』南方新社、2016年
  • 『日本史広辞典』山川出版社、1997年
  • 鹿児島県「島津忠良と島津貴久について」

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  この記事を書いた人
Ten-ten さん

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