【解説:信長の戦い】赤塚の戦い(1552、愛知県名古屋市緑区) やはり大うつけ信長は信頼されず!?
- 2022/09/14
※上記画像出所:中日新聞Web
織田信長が家督を継いだ直後に起こった、赤塚の戦い。その原因は、信長自身にあった? 能力に疑問符のつくような上司を持ってしまった人なら、この戦いを起こした人物の“切実な悩み”に共感してもらえるはずです。
織田信長が家督を継いだ直後に起こった、赤塚の戦い。その原因は、信長自身にあった? 能力に疑問符のつくような上司を持ってしまった人なら、この戦いを起こした人物の“切実な悩み”に共感してもらえるはずです。
織田信秀の死と尾張を巡る情勢
天文21年(1552)3月3日、信長の父で知られる、「尾張の虎」と呼ばれた武将・織田信秀が病死しました。(信秀の没年には諸説あります。)信秀が当主を務めた織田弾正忠(だんじょうのちゅう)家は、彼の父・信定の代から力をつけ始めます。家督を継いだ信秀も優れた能力を発揮し、尾張国内では強大な勢力を築いていました。そのため、信秀の時代になると、尾張の有力者たちは、あまり彼と “ことを構える” ことはしませんでした。そして尾張の北に位置する美濃国の斎藤道三も、娘を信秀の嫡男・信長の正室とし、同盟関係を結んでいます。
一方、東には問題がありました。三河国を実質的配下に置いていた、今川義元という存在があったのです。三河との国境において、織田は義元に押されがちでした。そんな中、亡くなった信秀。そして家督を継ぐのは、あの「大うつけ」の信長というではありませんか。
もしあなたが織田家に仕えていて、三河と国境を接する領土(つまり今川はすぐそこ)を持っていたら、どう思うでしょう。「はぁっ、あいつが次なの? ムリムリムリムリーーーーーーーーーーっ!」ってなりますよね。
山口教継が今川方に寝返る
実際にそのような状況に陥ったのが、鳴海(なるみ)城主だった山口教継(のりつぐ)という人物でした。教継は信秀に重用されていましたが、さすがに大うつけ・信長には忠誠を誓うことはできなかったということですね。信秀の死から間もなく、教継は義元側に寝返り、謀叛を起こすのです。鳴海城には息子の山口教吉、砦を築いた笠寺城には今川方の5人の将(葛山長嘉・岡部元信・三浦義就・飯尾乗連・浅井政敏)を招き入れて配備。そして自身も、桜中村城で守備を固めたのでした。
合戦の経過・結果
同年4月17日、19歳の若き織田信長は、およそ800人の兵を連れて出陣。古鳴海(こなるみ)の三の山へと登ります。対する山口教吉は、1500の兵を引き連れて赤塚へと向かいました。これを見た信長が動き、両者は赤塚の地(現在の名古屋市緑区鳴海町赤塚)で衝突することになります。これが「赤塚の戦い」です。
戦いは、巳の刻から午の刻(午前10時から正午くらい)まで行われたといいます。激闘が行われたものの勝敗はつかず、双方ともその日のうちに帰陣しました。意外とあっけなかったのですね。
それにしても、かつては仲間だった者同士の戦い。当然、顔見知りも多かったんだとか。戦い自体は容赦なかったようですが(信長側は30人が討死)、生け捕りにされた者や敵陣に逃げ込んだ馬たちは、後でお互いに交換したそうです。なんだか、最後はほっとしますね。
おわりに
織田信秀の死後、山口教継が若き信長を見限ったために起こった「赤塚の戦い」。結局は引き分けに終わります。顔見知り同士の戦いであったため、捕虜などを交換するといった場面もありました。その後、信長は「天下統一」の目前にまで迫ったのというのは、今でこそ常識。しかし、リアルタイムでその時代を生きていた人々からすると、信長がそんな大人物になるとは、当時は夢にも思わなかったでしょう。
タイムスリップできたら、まずは山口教継に寝返るな! と教えてあげたいですね。まぁ、うまく説得できる自信はありませんけど……。
【参考文献】 谷口克広『織田信長合戦全録 -桶狭間から本能寺まで』(中公新書、2002年)
太田牛一『現代語訳 信長公記』(新人物文庫、2013年)
中日新聞Web「信長18歳、初めての大きな戦い、赤塚の合戦」
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