「長島一向一揆(1571,73,74年)」殲滅までに再三の出陣を要した信長の天敵!
- 2019/09/27
長島一向一揆とは、伊勢長島一帯の本願寺門徒と織田信長軍との間に起こった戦いです。相手はただの信者たちと侮るなかれ。一揆軍は非常に手ごわく、信長軍は三度も攻めなくては鎮圧できなかったのです。
信長を“本気にさせてしまった”長島の一揆軍には、果たしてどんな運命が待ち受けていたのでしょう。知りたくないでしょうが(?)、わかりやすく説明していきます。震えますよ!
信長を“本気にさせてしまった”長島の一揆軍には、果たしてどんな運命が待ち受けていたのでしょう。知りたくないでしょうが(?)、わかりやすく説明していきます。震えますよ!
長島一向一揆との対立の背景
三度(実際は4回とも)も行われた、信長軍と長島一向一揆との戦い。両者が対立するに至った背景には、何があったのでしょうか。長島と願証寺について
長島一向一揆の “長島”(現三重県桑名市)とは、木曽三川(木曽川・揖斐川・長良川)に囲まれた中洲の一つ。辺りには多くの中洲が散らばっていますが、最も大きなものが長島です。長島には願証寺(がんしょうじ)(※1)という真宗本願寺派のお寺があり、周辺地域の門徒を統括していました。
※1 明治時代の河川改修工事により、願証寺跡は長良川に沈んだ。現在の願証寺は、本来別の寺院(祐泉寺)を「願証寺」と呼ぶようになったものである。
願証寺の勢力は、長島と周辺の中洲に城砦をつくり、自治を行っていました(※2)。そして稲葉山城の戦いに敗れた斎藤龍興が逃げ込むなど、長島は流れ者が住み着く地(アジール)でもあったのです。
※2 元亀元(1570)年、長島城主の伊藤重晴一族は願証寺の門徒に追い出されている。
顕如の呼びかけ
願証寺は信長がまだ尾張一国の時代から、海西郡の地(尾張の最西端)を巡って対立していましたが、武力衝突に至ることはありませんでした。しかし元亀元(1570)年、願証寺を拠点として、伊勢長島一帯の門徒たちが蜂起します。本願寺の顕如より、信長打倒の命が下ったからです。
信長包囲網が形成されつつあった時、本願寺の法主(ほっす)である顕如は、しばらく中立の立場を保っていました。ところが野田城・福島城の戦いの途中、反信長の兵を挙げたのです。その後、本願寺勢力は10年にわたって信長と対立することになります(石山合戦)。
信長は、長島の北方に位置する小木江城に弟の信興を置くなどし、長島の一向一揆に備えました。しかし同年11月、信長が比叡山で浅井・朝倉軍とにらみ合っている(志賀の陣)頃のことです。
一揆軍は小木江城を攻撃すると、信興を切腹に追い込むのです(11月21日)。
第一次長島攻め(1571年)
弟を討たれた信長は翌元亀2(1571)年5月12日、およそ5万もの大軍をもって三手に分かれて長島へと攻め入ります。- 津島(愛知県津島市):織田信長本隊
- 中筋口(小木江方面):佐久間信盛隊(尾張衆が中心)
- 太田口(岐阜県海津市):柴田勝家隊(美濃衆が中心)
対する一揆軍は、十数カ所の砦を有していました。それらの砦は守りが固く、大軍をもってしても攻めあぐねるものでした。信長軍はこのとき、砦の近辺に放火をすることくらいしかできなかったのです。諦めた信長は、4日後の5月16日夜に軍の退却を命じています。
信長の本隊と佐久間信盛の軍はすみやかに退却できましたが、柴田勝家の軍は苦戦を強いられます。退路口の地理的条件から、一揆軍の追撃を受けざるを得なかったからです。
柴田勝家が殿軍(しんがり)を務めるも負傷し、旗指物(はたさしもの)までも奪われてしまいます。氏家卜全の隊と殿軍を交代すると、卜全をはじめとして多数の戦死者を出してしまいました。
第一次長島攻めは、信長側の完敗に終わったのです。
第二次長島攻め(1573年)
天正元(1573)年9月24日、信長はまたしても長島に侵攻します。北伊勢の門徒であった国人・土豪たちが一揆軍に呼応し、寝返ったためでした。放っておけば、北伊勢全体と敵対するおそれが出てきたのです。船の調達を要請
出陣前に信長は(信長にとって)元凶である長島の一揆軍を攻撃するため、次男の信雄(※3)に命じ、伊勢大湊の船を桑名へと調達しようとしていました。※3 当時は伊勢の北畠家に養子に入り、北畠具豊(ともとよ)を名乗っていた。
ところが大湊の会合衆(えごうしゅう/自治組織の運営者たち)は、信長の求めに応じませんでした。引き続き要請を行いつつ、信長は岐阜を発つことになります。
信長はまず、長島の西方にあった敵城をターゲットとしました。信長本人は大垣を経由し、太田(現海津市)に着陣します。柴田勝家・佐久間信盛・羽柴秀吉・丹羽長秀ら近江の宿将も、桑名近辺に参陣しました。
北伊勢の敵城を次々と落とす
同年9月26日、信長軍は手分けして敵城に襲いかかります。一揆方に呼応した、西別所城・坂井城を次々と落としていきます。10月8日、信長は本陣を東別所に移すと、桑名郡から三重郡にかけての敵城もことごとく攻略します。白山城の中島将監(しょうげん)はただ一人降参しませんでしたが、佐久間信盛と秀吉の軍を派遣して開城させました。信長軍はこの勢いで、一揆軍の本拠地・長島までも落としてしまうのでしょうか!?
船が来ず、またしても撤退
しかし、信長は長島を攻められませんでした。出陣以来、要請していた船の調達が十分にできなかったのです。信長は滝川一益を長島の西・矢田城(現桑名市)に入れると、10月25日に撤退しました。そして帰陣のルートは、2年前に柴田勝家らが苦戦を強いられた例の道でした。なんだか、嫌な予感がしますね。
一揆軍は以前と同様、信長軍を追撃してきます。殿軍を務めた林新二郎(筆頭家老・林秀貞の息子)以下、多くの家臣たちの命がここで失われました。
第二次長島攻めは、またしても失敗に終わったのです。
第三次長島攻め(1574年、殲滅戦)
天正2(1574)年7月13日、信長は長島の一揆軍を鎮圧すべく、岐阜城を発ちます。三度目の正直といったところでしょうか。一揆軍にこれまで、さんざん煮え湯を飲まされてきた信長。第三次長島攻めが“普通に”終わるわけがありません。約8万の大軍で長島を包囲
戦いに参加した信長の家臣は、柴田勝家・佐久間信盛・丹羽長秀・蜂屋頼隆・稲葉一鉄・滝川一益・林秀貞・織田信忠(信長の長男)・北畠具豊(織田信雄)……など。戦略上動かせない明智光秀・羽柴秀吉などを除いて、ほぼすべての兵が動員された形です。その数、およそ8万人! 信長の本気度が恐ろしいほど伝わってきますね。
7月14日、まず信長は軍勢を3つに分けて攻撃を開始します。
- 香取口(長島の北西):柴田勝家・佐久間信盛・稲葉一鉄・稲葉貞通・蜂屋頼隆ら
- 市江口(長島の北東):織田信忠・信包・秀成・長利・信成・信次・池田恒興・森長可ら
- 早尾口(長島の北):織田信長・丹羽長秀・羽柴秀長・佐々成政・前田利家ら
翌日15日には、九鬼嘉隆・滝川一益・北畠具豊らの船団も到着しました。大軍に包囲された長島は陸上のみならず、海上からも攻撃を受けることになったのです。
一揆軍を兵糧攻めにする
およそ10万人以上とされる一揆軍は、5カ所の砦(長島・篠橋・大鳥居・屋長島・中江)に立て籠もります。8月3日には大鳥居(おおどりい)、12日に篠橋(しのばせ)が落ちると、一揆軍は残り3つの砦へと逃げ込まざるを得なくなりました。信長軍は厳重な包囲網を敷いており、外へは逃げられなかったのです。3つの城にそんな大人数が集まれば、当然食糧が足りなくなりますよね。信長は兵糧攻めに踏み切ります。1カ月半の間、戦闘は起こりませんでしたが、城内では多くの餓死者が出ました。一揆軍の半数以上は、飢えによって亡くなったとみられています。
降伏者を虐殺!
同年9月29日、本城の長島が信長方に講和を申し入れました。条件は城内の者の助命です。信長側もこれを飲んだので、降伏した者たち(きっと安心してる)は舟に乗ってこのまま退去……しようとしたとき、信長軍は一揆方に対して鉄砲を乱射し、川中に切り捨てたのです! うっそー! 許すと見せかけて、この仕打ち。悪魔すぎる。一揆軍も全員が全員、おとなしく殺されたわけではありません。文字通り、“決死の覚悟”で信長軍に襲いかかった者もいました。7・8百人の者たちは裸で川に飛び込み、抜刀一つで信長軍に反撃したと伝わっています。
揖斐川岸での壮絶な殺し合いの末、織田信次(叔父)・信広(庶兄)・秀成(弟)・信成(いとこ)といった信長の一族の他、馬廻り衆の荒川新八郎など、信長方にも多くの戦死者が出てしまいます。だまし討ちにしたと思ったら、まさかこんなことになるなんて……。
残りの2万人も焼き殺す
信長の怒りは、もう止められません。信長は残りの中江・屋長島(やながしま)の周囲に幾重にも柵を築かせると、放火するよう命じます。逃げ道を失った一揆軍(およそ2万の老若男女)は全員、生きたまま焼き殺されるしかありませんでした。おわりに
まさに地獄絵図ですね。最後に行われた第三次長島攻めが「殲滅戦」と呼ばれる理由も、お分かりいただけたと思います。歴史ファンからは人気の高い戦国時代ですが、実際に自分が生きるとしたら、こんなに嫌な時代はないと思いませんか?信長軍の大量虐殺で長島の一揆軍は壊滅状態となり、本拠地の願証寺も焼き払われました。戦後の長島城には滝川一益が入っています。
ただ、これで一向一揆との戦いが終了したわけではありません。越前一向一揆・天王寺砦の戦い・石山合戦など、その後も各地で両者の抗争は続いていくのです。
【参考文献】
- 谷口克広『織田信長合戦全録 -桶狭間から本能寺まで』(中公新書、2002年)
- 谷口克広『信長の天下布武への道』(吉川弘文館、2006年)
- 太田牛一『現代語訳 信長公記』(新人物文庫、2013年)
- 黒田基樹『あらすじで読む「信長公記」』(三才ブックス、2018年)
- 三重県:信長の伊勢攻略と長島一向一揆
- 桑名市:願證寺(がんしょうじ)
- 海津市役所:海津市史跡
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