日本の住宅の伝統「畳」。戦国時代に今のスタイルに?
- 2021/04/21
日本の住宅には畳がつきものですよね。最近では和室のないフローリングだけの住宅も増えましたが、和室の畳は風情があっていいものです。また、畳のい草の匂いというのは昔のなつかしい思い出として、ふとした瞬間によみがえります。
さて、今回取り上げるのはそんな畳の歴史です。大まかに起源からたどり、戦国時代の文化の中でどのように発展していったのかを紹介します。
さて、今回取り上げるのはそんな畳の歴史です。大まかに起源からたどり、戦国時代の文化の中でどのように発展していったのかを紹介します。
【目次】
畳は日本固有の敷物
日本の文化は中国など大陸から伝来してきたものが変化して根付くことが多いですが、実は畳は世界中どこを探しても同じものはない日本固有の文化です。畳の原型はすでに古代からあり、古くは「ござ」「むしろ」などの軽くて畳める薄い敷物もまとめて総称し、折りたためる敷物、という意味で「タタミ」と呼ばれるようになったようです。
畳に関する記述は『古事記』にも
畳が古代からあるということを示す資料として『古事記』があります。『古事記』は現存するもののなかで最古の歴史書で、天武天皇の勅命によって編纂され712年に献上されています。もうこの時点で畳は存在していたということです。
一例を見てみると、
「将入海時、以菅畳八重・皮畳八重・絁畳八重(後略)」
【訳】海に入ろうとするとき、菅の敷物や皮の敷物、絹の敷物を何枚も敷いて(後略)
菅畳八重(すがたたみやえ)、皮畳八重(かわたたみやえ)、絁畳八重(きぬたたみやえ)はそれぞれ菅という植物、皮、絹の素材。古くはい草で編まれたものではない敷物もこのように「畳」と呼んでいたことがわかります。
平安時代に今のようなスタイルに
原始は今のようない草のかたい敷物ではなかった畳。それではいつから今のような姿になったのかというと、平安時代のことでした。平安時代の建築は寝殿造ですが、基本的に床は板張りで、畳は敷き詰められていませんでした。貴族は座る場所に敷いたり、寝具として使用したりしていたようです。
また、醍醐天皇の命によって編纂された『延喜式』(平安時代の法令集で、927(延長5)年に完成)によると、身分によっては畳の縁や厚さ、大きさも定められていました。
当時の住まいを知る貴重な史料である『源氏物語絵巻』などをみると、身分の高い貴族の屋敷では一つの部屋に何枚も畳が敷かれている様子が窺えます。
室町時代から部屋全体に敷き詰めるように
室町時代に生まれた書院造との関わり
板張りの床の座る場所にだけ敷いていた畳が部屋全体に敷き詰められるようになったのは、室町時代のことでした。このころになると、寝殿造から武家屋敷の書院造へと住宅のあり方も変化していき、武家の文化が発展するとともに畳の使われ方も変容を見せるのです。
室町時代もやはり序列によって使用する畳にも決まりがあったようで、序列によって畳の縁の種類が定められていました。畳=権力の象徴という図式は平安時代からあまり変わっていません。
安土桃山時代の対面所では
室町時代のころから、武家の主従関係の「対面儀礼」というものがありました。これは主従関係の成立と確認をする重要な儀式であり、室町幕府では会所(集会を行う場所)で行うのが通例でしたが、足利義政が新邸宅「花の御所」を建築した際に会所とは別の「対面所」を設けたことから、その後、対面儀礼は対面所にて行われるようになります。
対面所は武家の主従関係を成立させる重要な儀式を行う場。安土桃山時代には武家屋敷の建築の中でも特に重要な施設として豪華になっていきました。
部屋は有名な絵師によるきらびやかな襖絵で彩られ(安土城や大坂城は「狩野派」の絵師による障壁画の装飾が施された)、通常の座敷より一段高い「床の間」を設けて主人の威光を示す工夫がなされました。部屋一面に敷き詰められた畳もその威光の一部といえます。
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信長は畳を盾として使用?
織田信長が建築した安土城。信長が掲げた「天下布武」をそのまま象徴するような城は世界初の木造高層建築とされ、信長自身は初めて天主(通常は「天守」だが、安土城のみこのように表記)に住んだ人物として知られています。何もかも規格外の安土城で、信長は「人が身を隠せるほどの畳のサイズに定めた」という説があります。安土城は焼失してしまい史料もあまり残されていないため詳しいことはわかりません。
畳のサイズは現在でも関東と関西で違いますが、戦国時代はさらにいろんなサイズの畳がありました。誰がどのように規定したかはなかなか確かめるのは困難です。
この逸話の真偽のほどは不明ですが、本当だったとしたら信長は弓矢や銃弾から身を守る道具として畳を使おうと考えていたのでしょうか。
ちなみに安土城の畳は広島県福山市の「備後表(びんごおもて)」が使用されたそう。現在も最高級の畳として知られています。
茶の湯文化と畳
畳文化を浸透させたのは、茶の湯文化の隆盛によるところも大きいとされています。茶の湯の流行によって武家屋敷も変化し、より簡素な作りの数寄屋造り(すきやづくり)が多くなります。
数寄とは、茶の湯や和歌、生け花などを楽しむことで、数寄屋はつまり茶室を意味します。
茶道では華美な装飾ではなく、質素な美しさが求められました。茶道の世界にあっては畳もその精神を受け、畳も実用性のあるものとして、やがて江戸時代には一般階級にも浸透していくこととなるのです。
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武家の文化によって畳文化も変容した
古代から日本特有の文化として存在していた畳。平安時代から今のような形で使用されていましたが、貴族であっても使用できる規格は序列によって明確に定められていました。中世に至っても依然として「高貴の象徴」であった畳。武家屋敷の発展や茶の湯文化の流行によって変容していったことを確認しました。
このころになってやっと「部屋全体に敷き詰める」という現代のスタイルになった畳。とはいえ、一般庶民の住宅にまでその文化が浸透するのはまだまだ先のことです。
【主な参考文献】
- 西ヶ谷恭弘『戦国の風景 暮らしと合戦』(東京堂出版、2015年)
- 飯倉晴武 編著『イラストでわかる日本のしきたり』(素朴社、2013年)
- 『新編 日本古典文学全集』(ジャパンナレッジ版)小学館
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