中世の邸宅と武家文化 寝殿造から主殿造、そして書院造へ
- 2021/04/22
戦国時代の建築というと、目立つのは城郭建築の一部である天守ではないでしょうか。天守は城の一部でしかなく、そこに大名が住まうこともなかった(安土城など例外はあり)のですが、どうしても城というと天守をイメージしてしまいませんか?
本記事では、高くそびえる天守に比べるとちょっと地味な住宅のほうに注目してみたいと思います。中世日本の武家社会で一般的だったのは、主殿造(しゅでんづくり)、そしてそれが変化した書院造(しょいんづくり)でした。
本記事では、高くそびえる天守に比べるとちょっと地味な住宅のほうに注目してみたいと思います。中世日本の武家社会で一般的だったのは、主殿造(しゅでんづくり)、そしてそれが変化した書院造(しょいんづくり)でした。
寝殿造を引き継いだ武家社会
中世は武士の時代です。しかし、武士たちの邸宅は平安時代の貴族社会で確立した寝殿造の様式がそのまま引き継がれていました。平安時代の寝殿造は屋敷の主人が住む寝殿を中央に配置し、東西に対屋(たいのや)を設け、渡殿(わたどの)という廊下で結びました。さらに対屋から南に廊下がのび、先には釣殿が。その南には池のある庭園を造る、というのが基本的なスタイルです。
※画像の出所:wikipedia 寝殿造、wikipedia 東三条殿
南側が開いたコの字型のプランは日本独特の仏教的宇宙観で発展したもので(例えば平等院鳳凰堂など)、国風文化を代表する建築様式ではありますが、まだ中国建築的な左右対称の美を意識したつくりになっています。
主殿造の成立
中世以降、武家社会ではこの寝殿造を簡略化した主殿造が成立します。のちの書院造とも違い、しかし寝殿と対屋を渡殿でつなぐ寝殿造とも違う。主殿造は母屋となる主殿だけで生活のすべてができる、完結した空間だったのです。
系統としては寝殿造の流れにありますが、こうした違いから「主殿造」という様式があったと見ることができます。
北山文化と東山文化
室町時代を代表する文化が、3代将軍・義満の北山文化、そして8代将軍・義政の東山文化です。鎌倉時代からの流れで五山文化が武家社会に拡がりを見せており、茶の湯・立花(生け花)・香道・書道・水墨画などが「たしなみ」として親しまれ、この時代の武家文化を作り上げています。会所と殿中の茶
室町時代の邸宅でとくに注目したいのが、主殿とは別棟の「会所」です。簡単に言えばお客さんを呼んで集会を催す場所なのですが、室町時代の武士たちはここで連歌会を開いたり、殿中の茶を楽しんだりしました。殿中の茶というのは今日の私たちがいうところの茶道とは少し異なります。当時楽しまれたのは、「闘茶」と呼ばれるお茶の産地を当てる遊戯。わびさびを味わう茶道はもう少し後のことでした。唐物の茶道具を集め、闘茶を楽しんだ殿中の茶。こういった茶の湯文化が武家社会に広まったのがだいたい義満の時代です。
会所建築はまだ書院造とはずいぶん違いますが、会所には今の床の間のような「押床」という場が設けられました。書院造の特徴のひとつでもある違棚も茶道具などを飾る棚として登場します。
付書院の登場
また、鎌倉時代末~室町時代初期の同じころ、読書や執筆のための文机を置く出窓の「付書院」が主殿に登場します。義政の「同仁斎」
8代・義政の時代に生まれたのが東山文化です。応仁の乱ののち、晩年の義政が日野富子と離れ、亡くなるまで暮らした東山山荘。この後身が現在の銀閣寺です。義政は山荘を建築するにあたり、会所の建築を後回しにし、先に西指庵や東求堂を建造しました。西指庵には寝室と書院があり、東求堂にも「同仁斎」という四畳半の書院がありました。この同仁斎がのちの茶の湯の四畳半茶室の模範であるという説もあります。
義政は生活の重点を書院に置いたといいます。のちに将軍職を譲った子の義尚(よしひさ)が亡くなり、一時的に義政が政務を行う必要が出たために会所も建造されましたが、義政はここで殿中の茶は楽しまなかったようで、それよりも落ち着いた風雅な趣の、禅の茶礼を取り入れた茶の湯を書院で楽しんだようです。これが侘び茶の成立にも影響しているといわれます。
当時の武家社会の風流人たちは義政のスタイルを積極的にまねて摂取し、東山文化が生れました。応仁の乱で京都の貴人たちが各地に逃れ、現在も残る小京都がいくつも生まれました。雅な文化が地方に広まったのは応仁の乱のせい、というかおかげというか。義政の時代だったわけです。
茶道・華道・日本画・連歌などの文化、さらには畳。今私たちが「日本らしい」と思う文化はこの時代に確立されたといっていいでしょう。
書院造の登場
寝殿造から主殿造、そこからまた少しずつ変化していった様式は完成し、書院造が確立します。書院造でもひときわ豪華な建築をふたつ紹介しましょう。秀吉の聚楽第
今はもう見ることができませんが、安土桃山時代に秀吉が建てた聚楽第は大規模な書院建築でした。大広間・主殿・納戸・御清所(おきよどころ/台所)などの棟を結び付けた御殿で、黄金に輝く豪奢なつくりだったようです。秀吉は大広間に上段を設け、書院造の設備(床の間や違棚、付書院など)を背後に設置。ここで諸大名と対面しました。
家康の二条城
聚楽第は8年で壊されたため原型を知ることはできませんが、大広間に関しては二条城二の丸御殿の大広間がそれに近いでしょう。上段の一の間、下段の二の間があり、書院造の設備が整えられています。障壁画は狩野探幽によるもの。対面する諸大名からは将軍が大きく偉大に見えるよう工夫が凝らされ、こちらもとても豪華な内装です。
文化・芸術を味わう建築
立派な天守があるわけでもなく、外から見ただけでは地味な居住スペース、という印象かもしれません。軍事施設としての城郭は外から見て楽しむのに適していますが、居住スペースである邸宅部分は内側こそ楽しめます。武士たちがそこでどんな遊戯にふけり、どんな芸術を愛したのか。暮らしぶりは建築からも見えてくるのです。
【主な参考文献】
- 河合正治『足利義政と東山文化』(吉川弘文館、2016年)
- 西ヶ谷恭弘『戦国の風景 暮らしと合戦』(東京堂出版、2015年)
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