「筒井順慶」ライバルは松永久秀。”日和見” で知られる順慶の激動人生とは

幼少期に家督を相続、少年期から十数年間にわたるライバルとの闘い、病をおして自身最期の戦に出陣…。筒井順慶の人生は戦乱の世にふさわしく、波乱万丈なものでした。しかし、順慶の名は意外なところで後世まで広く伝えられることとなったのです。

本能寺後に「日和見」の代名詞ともなった洞が峠(ほらがとうげ)。洞ヶ峠で順慶はいったい何を…?!


わずか2歳で筒井家の家督を相続

筒井順慶は天文18(1549)年に大和国(現在の奈良県)の大名であった筒井順昭(つついじゅんしょう)の子として誕生。幼名を藤勝丸といいました。

大和国では元々興福寺がその守護を務めていたのですが、「大和四家」と呼ばれる筒井、越智、箸尾、十市の4氏が台頭すると、その中から順慶の父・順昭が勢力を拡大して大和一国をほぼ手中に収めました。


筒井順昭の肖像画(圓證寺 蔵)
順慶の父・筒井順昭の肖像画(圓證寺 蔵)

筒井家は代々興福寺一条院方の衆徒でありましたが、衆徒の中でも「官符衆徒(かんぷしゅと)」といって、棟梁として衆徒を取り締まる立場にありました。

衆徒とは、いわば僧兵のこと。僧侶でありながら武士でもあるという身分です。しかし戦乱の世においては、筒井家は衆徒といっても興福寺とは離れた「有力国衆」の立場にありました。順慶はそのような背景のもと、武将として戦いの生涯を送ることとなります。

順慶の波乱の人生は、父・順昭の死去によって幕を開けます。

順昭は順慶が生まれた年から病を理由に比叡山に隠居していましたが、順慶2歳となる翌年には病没してしまいます。その後は筒井家の嫡子であった順慶が家督を継ぐことになりましたが、順慶はまだ乳飲み子にすぎません。順慶が成長するまでは叔父である筒井順政が筒井家の政務にあたり、大和における地位を守りました。



元の木阿弥

ところで、皆さんは「元の木阿弥」という言葉をご存知でしょうか。

元の木阿弥とは、一度はよくなった状態のものが、また元の状態に戻ってしまうこと。この言葉のルーツは順慶の父・順昭にあります。

順昭は自分が死んだ後も、しばらくはその死を伏せるように遺言していました。幼い順慶が家督を継いだことを知られることで、周囲に付け込まれるのを恐れたためです。

そこで、順昭と声がよく似た木阿弥(もくあみ)という僧侶を寝所に寝かせ、影武者として周囲を欺いた、と言われています。やがて順慶が成長し、順昭の死が報じられると、木阿弥はお役御免となって元の身分に戻されたといいます。

わずかな期間とはいえ、大名のような生活を送ることができた木阿弥を幸運とみるか、その幸運が去っていったことを不幸とみるかは意見が分かれるところですね。


宿敵・松永 久秀との長きにわたる戦い

さて、話を元に戻します。

新体制としてスタートを切った筒井家。しばらくは大和国での勢力を保っていたとみられます。

当時の中央政権は三好長慶が牛耳っていましたが、永禄2(1559)年にはその重臣の松永久秀が大和国へ侵攻を開始。筒井家は次第に厳しい状況に立たされていきます。

そして順慶が15歳となった永禄7(1564)年に叔父・順政が死去。これを機に順慶のライバル・久秀との戦いがいよいよ始まります。


筒井順昭の肖像画(圓證寺 蔵)
松永久秀の肖像画(落合芳幾 作)。何度も主家に背く梟雄で知られる。

松永久秀といえば、戦国三大梟雄の一人に数えられるほどのアクの強い人物でかなり手ごわい相手。以下、各合戦を概観していきます。


永禄8(1565)年、筒井城の戦い

永禄8(1565)年の8月に久秀や三好三人衆らが13代将軍・足利義輝を暗殺(永禄の変)すると、その後の三好家中では、久秀の専横をきっかけに三好三人衆と久秀が敵対するように。

そこで順慶は三好三人衆と手を結んで大和国での勢力回復を狙います。が、久秀は筒井順政の死を知って11月に筒井城を奇襲。三人衆からの援軍も間に合わず、順慶は一族の布施氏を頼って布施城へと落ち延びています。


永禄9(1566)年、筒井城の戦い

しかし翌年には順慶が反撃にでます。堺で久秀が三好義継と戦闘中に、その隙をついて筒井城を奪還しています。この時順慶は得度して、幼名の藤勝丸から「陽舜房順慶」へと改名しています。


永禄10(1567)年、東大寺の戦い(多聞山城の戦い)

こうした中、永禄10(1567)年2月に高屋城の三好義継が三好三人衆から突如出奔し、久秀に保護を求めてきます。

4月に久秀が義継を擁して多聞城へ移りますが、順慶や三人衆、池田勝正らが多聞城を包囲。以後、およそ6か月もの間、久秀に圧力をかけ続けます。

しかし、10月になって突如久秀が夜襲に打って出ます。これにより東大寺の伽藍は焼失、三好三人衆勢は総崩れとなり、順慶も筒井城まで引き返すことになりました。



※参考:順慶、松永、三人衆らの合戦要所マップ。色塗エリアは大和国。青マーカーは順慶の居所となった城

永禄11(1568)年、筒井城の戦い

永禄11(1568)年、織田信長が足利義昭を擁立して上洛戦を展開。三好三人衆を京から追い出して義昭を15代将軍に就かせます。

一方、このとき久秀が信長に臣従し、織田信長と将軍権力という強力な後ろ盾を得ることに。勢いづいた久秀は筒井城下に火をかけ、筒井城に総攻撃をしかけてきます。

順慶はそれまで筒井家方にあった郡山衆が離反して久秀勢の先陣を務めている状況から不利を悟りました。再び居城を奪われ、叔父のいる大和福住城に落ち延びます。


元亀元(1570)年、福住城の戦い

福住氏にかくまわれていた順慶は、久秀を打つ機会をうかがっていましたが、元亀元(1570)年6月には久秀が子の久道を伴って福住城に攻め込んできました。しかし、福住城主の福住宗長が久秀を撃退。順慶を守り抜いています。


元亀2(1571)年、辰市城の戦い

中央で実権を握った信長と将軍義昭の関係が次第に悪化。義昭は水面下で信長に対抗するための勢力を集めるようになります。

そこで義昭に目をつけられたのが順慶でした。義昭は九条家の娘を養女として順慶に嫁がせるなどして接近してきます。これに勢いを得た順慶は義昭の支援を得て元亀2(1571)年7月、久秀攻略の拠点ともなる辰市城を築城。

翌8月、久秀は三好義継らとともに辰市城を攻撃してきますが、順慶はこれに応戦。この合戦では久秀に反発する国衆が順慶の味方をしたため、久秀方は主戦力500人以上が討ち死にするという大敗を喫しました。順慶は22歳にして無事に筒井城を奪還することができたのです。

筒井城をめぐって幾度となく戦いを繰り返した順慶と久秀でしたが、最終的には筒井城は順慶の手に。久秀は筒井城が奪還されたことで、拠点である信貴山城と多聞山城をつなぐ経路が分断され、次第に形勢が不利に傾いていきます。


人望厚き順慶、住民から愛される

筒井城を取り戻すきっかけとなった辰市城の戦いですが、この戦の場となった辰市城の築城には、地元の領民がこぞって協力したと言われています。

順慶は領地の農民を手厚く保護してきたことから、今こそ恩に報いんと領民を力を貸したのでしょう。

また、順慶は武将でありながら僧でもあったため、仏教への信仰が篤く、大和の寺院にも手厚い保護を行っていたともいわれています。そのため大和の僧侶たちは、長きにわたる順慶と久秀の戦いの間、ずっと順慶を支持していました。

強敵相手に何度も苦戦を強いられた順慶にとっては非常に心強かったに違いありません。


興福寺の五重塔と東金堂
現在の興福寺(五重塔と東金堂)。

のちに、順慶が大和全般を支配するのではないかとのうわさが立った時には、興福寺の多門院英俊は「事実においては寺社大慶、上下安全、もっとも珍重々々」と日記に記すほどの喜びを見せています。

自身の領民たちを大切にしてきたその行いが、厚い人望となって自分のもとに帰ってくる…、まさに仏教でいう因果応報、ですね。


光秀の斡旋で信長のもとへ

順慶は筒井城の奪還後、明智光秀の斡旋で織田信長に仕えるようになります。

光秀は土岐氏という名門貴族の出身といわれており、和歌や茶の湯にも通じる教養人でもありました。光秀は自分と同じように茶の湯、謡曲、和歌などの文化面に秀でた順慶に好感を持ち、信長に推薦したのではないかと考えられています。


明智光秀と筒井順慶のイラスト
順慶はのちに明智光秀の与力へ。

信長と将軍義昭の対立が次第に強まる中、順慶は信長へ使える道を選択しましたが、一方で久秀は元亀3(1572)年に信長から離反して義昭につきました。

この選択はやがて、二人の明暗を分けることになります。

元亀4(1573)年4月に反織田勢力の中心であった武田信玄が病没すると、後ろ盾を失った義昭は7月に信長に敗れて追放。11月には将軍をかくまった三好義継が信長に討ち取られています。

さらに信長は順慶らに久秀が籠る多聞城の攻撃を命じます。久秀は城を明け渡して降伏するほかなく、孫を人質に出すことで助命され、再び信長の傘下へ下りました。しかし、もはや久秀にかつての勢いはありません。

このような経緯があったとはいえ、長年の宿敵同士だった順慶と久秀が同じ主君に仕えることになったのですから、運命とは不思議なものですね。


信長家臣として活躍、やがて大和国支配者へ

順慶はその後、信長の家臣として多くの戦に参戦、織田家の中でも一目置かれる存在となっていきます。

順慶が信長軍として参戦した戦いには以下のようなものがあります。


  • 天正3(1575)年:孝子峠の戦い、越前一向一揆
  • 天正5(1577)年:平井城の戦い、雑賀攻め、信貴山城の戦い
  • 天正6(1578)年:播磨攻め
  • 天正7(1579)年:有岡城の戦い
  • 天正9(1581)年:比治山砦の戦い、柏原城の戦い

まさに戦いの中に身を置くような毎日ですが、戦の中での活躍ぶりを得て、信長も順慶を信頼に足る人物として重用していくようになったのでしょう。やがて順慶は信長の姉妹を娶り、一門衆に名を連ねるほどになりました。


大和国の守護に抜擢!

信長は天正3(1575)年3月に塙直政(ばんなおまさ)を大和の守護に任命。直政は翌年に興福寺で行われた薪能において、順慶と松永久通(久秀の子)を左右に従え、大和国の平定を周囲にアピールしています。

これにより、順慶は直政の与力として、大和国における支配力が大きく制限されたかに思われました。しかしその直政が同年の天王寺の戦いでまさかの討ち死…。

天正5(1577)年には長年の宿敵であった久秀が再び信長に背き、信貴山城の戦いで自害。大和での支配力をさらに強めます。天正8(1580)年に織田家中で佐久間信盛が失脚すると、大和全域の支配は完全に順慶が担うようになったのです。

とはいえ、軍事面においては幾内方面軍の司令官であった明智光秀の配下にありました。順慶は外様(とざま)であり、まだ若年でもあったことから方面軍を任されるほどの立場にはなく、与力にとどまっていたようです。

ちなみにこの頃に筒井城から大和郡山城への移転を計画しており、正式に大和一国が任されたあとに居城を移しています。


大和郡山城の天守台跡
大和郡山城の天守台跡


本能寺の変直後は「日和見」作戦

天正10(1582)年、本能寺の変が勃発、順慶の主君・信長は、光秀によって自害に追い込まれてしまいました。

光秀が主君に背いた理由には諸説ありますが、謀反に当たっては衝動的にことを起こしてしまったとみられており、変後の具体的な計画を練ってはいなかったようです。そのため、周囲の武将たちからもそっぽを向かれてしまい、孤立を深めます。

光秀と縁戚関係にあり、文化的な交流もあった順慶は、本能寺の変後に光秀から味方になるように誘われています。しかし、順慶は家臣たちと評定を重ね、すぐには返事をしませんでした。

光秀は洞が峠に布陣したまま順慶の返事を待ちましたが、順慶からは返事がありません。この時の順慶を「日和見」に徹したとして、日和見のことを「洞が峠」ともいうようになりました。

実際は洞ヶ峠にいたのは光秀であって、順慶ではないのですが…、いつの間にやら順慶が洞ヶ峠で光秀と秀吉の戦の成り行きを見守っていたというような話にすり替わってしまったようです。そのせいで、順慶は「優柔不断な日和見者」というイメージが付きまとうようになってしまったのは気の毒な話です。

その後ほどなくして、中国方面にいた羽柴秀吉が「中国大返し」で畿内に戻り、山崎の戦で光秀を打ち破ったことは周知の事実。順慶がもし情に流されて光秀の誘いに乗っていたら、順慶の運命もまたしかり、です。ここは静観を決め込んだ順慶の作戦勝ちでした。



順慶の最期

山崎の戦いの直後、秀吉に謁見した順慶でしたが、『多門院日記』によると、秀吉は順慶の遅参を叱責。これがかなりのストレスとなってしまったのか、順慶は胃の痛みによって体調を崩してしまったようです。

この噂は大和一円に広がり、人々を焦燥させたといいます。しかし、その後順慶は秀吉の家臣となり、大和国の所領も安堵されました。

天正12(1584)年頃から体調を崩して床に伏していたようですが、同年の小牧・長久手の戦いに秀吉から出陣を要請され、病気をおして出陣しています。しかし、これが負担となったのか、戦を終えて大和に戻った後に病没。享年36歳でした。


おわりに

順慶の死後は、養嗣子である定次が家督を継ぐことになりました。定次は本能寺の変後は秀吉の家臣となっており、秀吉のもとで主要な合戦に参戦しています。

天正13(1585)年の国替えでは、代々の所領であった大和国から伊賀国上野に移封。

関ヶ原合戦では東軍に属し、戦後は徳川家康から所領を安堵されましたが、慶長13(1608)年にはお家騒動をきっかけに幕命により筒井氏は改易に。改易後は鳥居忠政のもとに預けられていた定次ですが、大阪冬の陣の際に、豊臣家へ内通していたとの疑いで嫡男順定とともに自害を命じられました。

世間では、筒井順慶=「日和見」という不名誉なイメージの強い武将ではありますが、かの松永久秀を敵に回して一歩も引かず、その粘り強さで勝利を収めた姿からは、一国の主にふさわしい気概のある武将であったことが想像されます。

でも、無理がたたったのか、ストレスが原因と考えられる胃痛に悩まされ、それによって命を落としたのもまた事実。筒井家を守るために矜持を保ち続けていた順慶ですが、実は優しく繊細なタイプだったのかもしれないですね。

いずれにしても、36歳という若さで生涯を閉じてしまったのは残念なことです。




【主な参考文献】
  • 和田裕弘『織田信長の家臣団 -派閥と人間関係』(中公新書、2017年)
  • 小和田泰経『戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い』(新紀元社、2010年)
  • 福島克彦『畿内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館、2009年)
  • 谷口克広『信長と消えた家臣たち -失脚・粛清・謀反』(中公新書、2007年)
  • 谷口克広『信長軍の司令官 -部将たちの出世競争』(中公新書、2005年)

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  この記事を書いた人
玉織 さん
元・医療従事者。出産・育児をきっかけに、ライター業へと転向。 現在はフリーランスとして、自分自身が「おもしろい!やってみたい!」 と思えるテーマを中心にライティングを手掛けている。 わが子の子育ても「得意を伸ばす」がモットー。

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