光秀と筒井順慶との関係 ~「洞ヶ峠を決め込む」は濡れ衣?

光秀の天下をかけた戦いである山崎の戦い。この戦いで光秀の要請に応えず傍観し、結局は秀吉方についた武将として知られるのが筒井順慶です。

この出来事は「洞ヶ峠を決め込む」だとか「洞ヶ峠の日和見」だとか、光秀につくか秀吉につくか、はっきりとは定めず傍観を決め込んだ日和見主義という悪評が筒井順慶についてまわる原因となりました。しかし、実際にはこの故事のような単純な話ではなかったのです。

筒井 順慶とは

筒井順慶は天文18年(1549)3月3日に大和国の筒井城城主・筒井順昭の子として生まれ、幼くして家督を継ぎました。三好長慶の家臣であった松永久秀に侵攻されて筒井城が奪われ、奪還するもまた奪われる……と苦難が続きます。やがて光秀とのつながりから信長の家臣となり、大和守護に就くことになります。

筒井順慶の肖像画
のちに光秀の与力となる筒井順慶

「洞ヶ峠を決め込む」だけではない、順慶由来の故事「元の木阿弥」

順慶の父・順昭は、4氏が勢力を持ち拮抗していた大和国内で勢力を拡大しつつあり、大和一国をもうすぐで手に入れるほど力をつけていました。しかし28歳の若さで病にかかり死去。そのとき、嫡男の順慶は2歳でした。年端もゆかぬ幼子だったため、順昭は弟らを補佐につけています。

また、対外的には順昭が亡くなったことを伏せ、周囲の目を欺くために自分によく似た盲目の「木阿弥」という者を影武者に立て、順慶が成人するまで(数年であったとも)順昭の死を隠しました。

木阿弥は貧しい暮らしから一変して、影武者時代に贅沢な暮らしを送ることができましたが、用済みとなった後は元の生活へ。このことから、一度よくなったものがまたもとに戻ることを「元の木阿弥」というようになったと言われています。

光秀の与力として

元亀2年(1571)、順慶は光秀とのつながりから信長の家臣になりました。信長に降参して、仲介してくれたのは光秀だったのだとか。そうして光秀の組下大名となったのは大坂本願寺攻めごろだとされています。

それ以前に松永久秀も信長の家臣となっており、石山本願寺攻めなどにも参加していました。同じ信長の家臣となったことで順慶と久秀は和睦しています。ただ、もともと義昭の幕臣であった久秀はこのころ義昭と通じており、すでに反信長の動きを見せていました。

元亀3年(1572)、久秀は三好三人衆らとともに信長に謀反。長年敵対していた久秀のこの行動に、順慶はこれを好機と見てその討伐に参加しています。

光秀の与力として働いていた順慶は、本願寺攻めなどにも加わり忠勤に励みました。それからしばらくして、信長に降伏していた久秀が再び信長に敵対する勢力とともに背き、ついに討たれて自害。

久秀が滅んだことで空いた大和守護の座。信長は当初光秀に与えるつもりだったといいますが、光秀はこれを辞退して順慶を推挙して譲っています。

自害する直前、茶釜「平蜘蛛」を叩き割る松永久秀の像(月岡芳年 画)
自害する直前、茶釜「平蜘蛛」を叩き割る松永久秀の像(月岡芳年 画)

光秀は戦死した家臣のために弔いの寄進米を供えるほど家臣への気遣いを欠かさない人物だったといいますが、この順慶の推挙も、長年居城を取り戻そうと尽力してきた順慶を知っていたからこそでしょうか。光秀の慈悲深さがうかがえます。

順慶が大和を奪還できたのも光秀の支えによるところが大きく、天正8年(1580)、大和郡山に居城を移転する際、新しい城の縄張を光秀に依頼し、大和国内の検地も光秀に指南されています。

光秀とは上司と部下以上の結びつき?

養子縁組、姻戚関係にあったかも

『明智軍記』によれば、光秀は第六子である十次郎(十二郎/自然?)を順慶の養子にしたとされています。十次郎は次男の定頼。この十次郎は光秀が山崎の戦いで討死したあと、明智秀満とともに坂本城で亡くなったとされています。

出典が『明智軍記』であるため、順慶の養子となったかどうか、真偽のほどは定かではありません。高柳光寿氏は、著書『明智光秀』(吉川弘文館)において、順慶が信長の命で光秀の子を養子にしたのは疑わしい、と述べています。

ただ、もし事実だったとすると光秀と順慶は上司と部下という関係以上に結びついていたということで、互いにその存在を重視していたことが推測できます。

それ以外にも、光秀の五女が順慶の養子である筒井定次の妻となった(正妻・信長の三女と同一人物とも)という説もあり、姻戚関係にあった可能性も考えられます。

文化面での交流もあった

光秀は連歌や茶の湯など、文化に通じた教養人としても知られていますが、順慶も同様に文化に通じた人物でした。

例えば茶の湯。光秀は天正6年(1578)以降、坂本城で年2回は茶会を開いて交友のある人物を招いていますが、こういった場に順慶も招かれていたようです。細川藤孝ほど文化面でのつながりがあったかどうかはわかりませんが、こういう場でも交流していたことから、公私ともに密接に結びついていたことがわかります。

本能寺の変後の行動

それだけ深い結びつきがあった光秀と順慶。しかし、本能寺の変後の行動としてよく知られるのは、順慶が光秀の再三の要請に応じることなく、大和郡山城で戦の形成を傍観しながら秀吉に誓紙を出して自らの保身に走ったという日和見エピソードです。

「洞ヶ峠(ほらがとうげ)の順慶」といわれ、洞ヶ峠まで兵を進めておきながらどちらに味方するでもなく、結局は秀吉に従った。これは事実と誤りがごちゃ混ぜになったエピソードで、実際はもう少し複雑でした。

当初は光秀に加担か?

天正10年(1582)6月2日、本能寺の変が起こった当日、順慶は信長に中国出陣を命じられていたため、大和郡山城を出て京都に向かっていましたが、その途上で変の報を耳に入れます。

家臣を呼んで評定を重ねましたが、順慶にとって光秀は信長の家臣となる際に仲介してくれた恩人であり、宴席関係にもある人物。ないがしろにはできません。

進んで協力したかどうかは不明ですが、この翌日には大和郡山城に戻って兵を出し、辰市、大安寺、東九条あたりを警備しています。

このとき、光秀と敵対する側の、信長の三男・信孝や家臣の丹羽長秀らも順慶に援軍を要請していたようですが、順慶はこれには手を貸さず、6月5日、一部の兵を光秀の兵とともに近江へ送り攻め入っています。

全面的に協力したとは言えませんが、信孝・長秀のほうを無視する形になっているので、この時点では光秀の援軍要請にしっかり応えていることがわかります。

秀吉の接近により一転

しかし、その後数日の間に状況は一変。備中高松城で毛利とにらみ合っていたはずの秀吉の進軍(いわゆる中国大返し)が意外にも速く、状況をすぐさま理解した順慶は出陣を中止し、米や塩を大和郡山城に入れて籠城に備えます。これが6月9日のこと。

光秀は藤田伝五を使者に立て説得しますが、11日、順慶は秀吉に誓紙を出しています。光秀は洞ヶ峠に陣を敷いて順慶を待ちますが、順慶が動くことはありませんでした。洞ヶ峠で待ったのは光秀のほう。兵で威圧する意図もあったと考えられています。

あきらめた光秀は11日に洞ヶ峠の陣を撤去し、山崎の戦いで明智軍は痛手を負い、6月13日、敗走するさなかに落ち武者狩りにあい、最期は自害して果てたと伝わります。

山崎の戦い、本能寺等の位置。色塗部分は順慶の支配エリア・大和国

このとき、光秀は古くから付き合いのあった組下与力である順慶や細川藤孝の援軍を期待していました。しかし双方ともに背を向けられる結果となり、想定していた数よりも少ない兵力で戦う羽目になりました。

順慶のおよそ18万石、細川藤孝のおよそ12万石。これらを味方につけられていたなら、光秀の運命はどうなっていたでしょうか。勢力を立て直すことはできたかもしれません。

おわりに

順慶は最後には光秀に背を向ける結果になりましたが、途中までは協力する意思があったことが見て取れます。

細川藤孝・忠興親子も同様に協力を要請されていますが、こちらのほうはハナから応じず、藤孝は出家・忠興も静観を決めました。この細川親子の行動に比べると、順慶は迷いがあったように感じられます。

評定を重ね、最初は協力することを決めた。しかし順慶も家を守ることが第一であり、最後は保身に走ってしまった。もし秀吉がもうすこし遅ければ、順慶は光秀に全面協力して戦っていたかもしれない…、そんなふうに思えます。


【参考文献】
  • 高柳光寿『人物叢書 明智光秀』(吉川弘文館、1986年)
  • 二木謙一編『明智光秀のすべて』(新人物往来社、1994年)
  • 谷口克広『検証 本能寺の変』(文芸社文庫、2007年)
  • 新人物往来社『明智光秀 野望!本能寺の変』(新人物文庫、2009年)
  • 明智憲三郎『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫、2013年)
  • 歴史読本編集部『ここまでわかった! 明智光秀の謎』(新人物文庫、2014年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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