真田父子の生涯における最大の見せ場となった「犬伏の別れ(1600年)」とは
- 2020/06/18
関ヶ原の戦いでは上田城に籠城し、徳川勢を大いに苦しめた「真田昌幸」と「真田幸村」(信繁)父子の活躍は有名です。しかし、このとき昌幸の領地に攻め寄せた徳川勢の中に昌幸の嫡男である「真田信幸」(信之)の姿もありました。
なぜ昌幸と信幸は敵味方に分かれたのでしょうか? 今回は、真田父子が敵味方に分かれることを決断した舞台とされる「犬伏の別れ」についてお伝えしていきます。
なぜ昌幸と信幸は敵味方に分かれたのでしょうか? 今回は、真田父子が敵味方に分かれることを決断した舞台とされる「犬伏の別れ」についてお伝えしていきます。
上杉征伐軍の出陣と石田三成の挙兵
徳川家康による上杉征伐
豊臣秀吉によって戦国時代は幕を閉じ、天下泰平が訪れたとのもつかの間のこと、秀吉が亡くなった後、誰が政治の主導権を握るかといった権力闘争が勃発します。一方は豊臣氏に次ぐ勢力を誇る関東の「徳川家康」、もう一方は豊臣氏による天下を守ろうとする「石田三成」ら反家康勢力でした。
このふたつの勢力がついにぶつかり合うのが慶長5年(1600)のことです。会津国の上杉景勝は謀反の疑いをかけられ、家康の上洛命令も拒否したため、家康を総大将とした上杉征伐軍が組織されました。
6月16日に家康は大坂城を出陣し、7月2日には江戸城に入り、諸大名の参陣を要請しています。その中にはもちろん上田城主の真田昌幸、沼田城主の真田信幸も含まれています。
このとき真田勢は家康に味方し、上杉氏を征伐するつもりでいたのです。しかしある書状が届くことで、昌幸は家康の本陣に合流するかどうか悩むことになります。
石田三成による挙兵
家康が豊臣秀頼に代わり、総大将を務めて大坂城を出陣した際に、佐和山城主の三成は蟄居の身でした。家康がいなくなった隙に、大谷吉継を佐和山城に呼び寄せて味方につけ、さらに毛利方の安国寺恵瓊とも図って大老である毛利輝元を大坂城に入れたのです。これが7月17日のことです。もちろん秀頼は大坂城にいますから、三成らの軍勢もまた正規軍といえます。
輝元の他にも大老である宇喜多秀家、奉行の前田玄以、増田長盛、長束正家らは早速家康の否を明らかにするための「内府違い条々」と呼ばれる弾劾文をしたためて諸大名に送りつけます。
昌幸の手元に届いた書状の正体はこれでした。昌幸の元にはさらに玄以ら三奉行による連判状も同時に届けられています。輝元や三成の挙兵に参加するよう求められたのです。
犬伏の別れの内容は?
犬伏にて真田氏の方針を密談
宇都宮に向けて進軍中だった昌幸は、この後どう行動すべきかを二人の息子と話し合うことにしました。この密談の地が犬伏です。そして昌幸は息子たちに家康と敵対することを告げました。昌幸はもともと家康に従属していましたが、領土問題でこじれて武力衝突しています。秀吉によって和睦したものの、家康の寄子という立場にされ不満を持っていたと考えられます。
しかし家康憎しという感情だけで昌幸が決断したとは考えられません。知略に優れた昌幸のことですから、三成方(西軍)に勝算ありと見抜いたうえで、家康を見限ることを決めたのではないでしょうか。
昌幸の二男である真田幸村(信繁)は、三成方の大谷吉継の娘を正室に迎えていましたから昌幸の選択にすぐ同意したはずです。ただし、ここで最大の問題が浮上します。嫡男である真田信幸が昌幸の決断に異を唱えたのです。
つまり信幸はこのまま家康に味方すると主張したわけです。激論のため互いに刀に手をかけるほどだったとも伝わっています。
なぜ信幸は父親に逆らったのか
信幸は三成と何度も書状をやりとりする間柄でしたが、なぜその三成を見放し、父親である昌幸の提案に反対したのでしょうか? 『長岡寺殿御事績稿』には、昌幸・信幸・幸村の意見にはそれぞれの背景があり、- 昌幸が家康を恨んでいた点
- 信幸が家康重臣の本多忠勝の娘(家康養女・小松殿)を正室に迎えていた点
- 幸村が大谷吉継の娘を正室に迎えていた点
が、父子で意見が分かれた原因だと記しています。
『滋野世記』によると、昌幸は家臣の坂巻夕庵に信幸の説得を依頼しましたが、信幸の決意の固さを知ってこれを断ったと記しています。
信幸は前年の時点ですでに妻子を大坂城から沼田城に戻らせていたことから、かなり以前に大坂を敵に回しても家康との主従関係を貫き通す腹づもりをしたと考えられます。
三成挙兵時に大坂城にいる吉継からは、昌幸と幸村の妻子は自分が預かっているから心配せぬようにとの書状が届けられていますが、そこには信幸の妻子について触れられていません。すでに大坂城にいなかったことを示しているのです。
一族生き残りのための決断だった!?
上田城へ帰還する昌幸がとった驚くべき行動
犬伏での密談の結果、昌幸と幸村は西軍に味方し、信幸は東軍に味方することに決まりました。父子敵味方に分かれることになってしまったのです。はたしてこれが涙ながらの別れとなったのか、未来の真田氏のためと割り切っての別れだったのか、真相はわかりません。
昌幸と幸村は急遽兵を返し、中山道を避けて、間道の吾妻街道を通って上田城へ帰還します。途中、沼田城を通過した際に昌幸は驚くべき行動をとります。
城主である信幸がいない隙を突いて沼田城を奪い取ってしまおうと考えたのです。しかし留守を預かる信幸の正室・小松殿が戦支度をして誰も城内へ入れないようにしたために昌幸は沼田城を奪うことを諦めたと伝わっています。
これが真実であれば、昌幸は完全に信幸を敵と見なしていたということでしょう。ただし、城外で孫の顔を見たらすぐに上田城に向かったということですから、沼田城を奪うことまではさすがの昌幸も考えていなかったのかもしれません。
信幸のおかげで真田氏の領土は守られた
上田城に戻った昌幸と幸村は、信濃国で唯一家康に刃向かった勢力であり、家康は嫡男である徳川秀忠を総大将にして上田城を攻めさせました。徳川勢は二手に分かれて大坂城を目指して進軍したわけです。城主である信幸がいない隙を突いて沼田城を奪い取ってしまおうと考えたのです。上田城に籠城した昌幸・幸村父子は善戦しましたが、関ヶ原の戦いで三成が敗北したことで西軍は総崩れとなり、家康が大勝します。もはや昌幸に打開策はありませんでした。
昌幸も幸村も家康を裏切り、敵対したわけですから処刑されて当然のところですが、信幸や忠勝の助命嘆願によって高野山への蟄居と決まり、命は救われました。
昌幸の上田城ももちろん没収されたのですが、信幸に与えられたので、全体を通じて真田氏の領土は守られたことになります。さらに加増され、信幸の所領は9万5千石にもなり、初代上田藩主となったのです。
犬伏の別れの際には、昌幸は「家を分けることが、結局は家の存続に繋がる」と述べたとも伝わっていますが、まさにその通りの結果になっています。
犬伏の地での密談とは、東軍が勝っても、西軍が勝っても、どちらにせよ真田氏は反映するための戦略だったのかもしれません。
まとめ
古くから合戦で父子が敵味方に分かれたり、兄弟が敵味方に分かれることはよくある話です。当時の武士にとっては常識的な選択だったのかもしれません。犬伏の別れが後世まで語り継がれているのは、決着がついた後、父と弟のために信幸が苦心し、そこに家族の情が強く感じられるからでしょう。西軍が仮に勝っていたとしても、昌幸と幸村は信幸の助命嘆願を行い、信幸を守ろうとしたに違いありません。
【参考文献】
- 黒田基樹『豊臣大名 真田一族』(洋泉社、2016年)
- 平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』(KADOKAWA、2015年)
- 丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社 、2015年)
- 平山優『大いなる謎 真田一族』(PHP新書、2015年)
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