真田昌幸の名言・逸話20選
- 2017/11/19
真田丸での記憶も新しい!?昌幸の死後も、因縁の相手・徳川家康も苦しめたという逸話は必見です。
信玄家臣期
信玄直伝の軍略
幼少期から信玄に仕えた昌幸は、信玄全盛期の軍略や外交を見て模範にしていたとされている。(『真武内伝』)
信玄に"両眼"と称される(昌幸24歳)
元亀元年(1570)、武田信玄が伊豆に攻め込み、北条氏政の軍勢が出陣してきたのに対し、信玄は「決戦を行って氏政を蹴散らし、小田原まで侵攻しよう」と家臣らに提案したが、馬場信春が、「敵味方の配置や、地形を見極めてから決断した方がよいのでは」、と信玄を諫めた。すると信玄は、「それならば皆々安心せい。わしの両眼の如き者らを、物見に派遣しておる」と答えた。
そして家臣らが "両眼" とは誰なのか、怪しんでいると、昌幸と曾根昌世の2人が帰陣してきて、地形が武田に有利なことを報告したという。(『甲陽軍鑑』)
極秘の談合にも参加(昌幸24歳)
元亀元年(1570)、信玄の命で上方方面の情報収集から戻ってきた長遠寺という一向宗坊主が、上方各地の部将から信玄に味方する旨の書物を取って来て、それらを信玄に差し出されたとき、信玄は土屋昌次・真田昌幸、曾根昌世、三枝昌貞の4名のみを連れて御幡屋(=家伝の御旗を安置する建物)に入り、信頼する7人の将を呼び寄せて談合したという。(『甲陽軍鑑』)
奉行も担う
軍功に関する訴訟の奉行は、真田昌幸・曾根昌世・三枝昌貞・今井新右衛門だったという。(『甲陽軍鑑』)
信玄の寵愛を受ける
昌幸は、信玄から武田家の将来を担う柱石の1人と考えられていたという。
また、晩年の信玄は、戦没者の仏事供養のほか、すべての家臣のために「七難即滅・七福即生」を唱え、その後に春日虎綱・土屋昌続・曾根昌世・三枝昌貞・真田昌幸の5人のために、1人につき100遍ずつ不動の呪文を唱えていたというが、のちに思い出話となった時、昌幸と春日虎綱は互いに号泣したという。 (『甲陽軍鑑』)
勝頼家臣期
敵を畏れない昌幸隊(昌幸30歳)
天正4年(1576)の春、勝頼が遠江・高天神城の兵糧入れのために遠江国城東郡まで出陣、家康は横須賀城に大須賀康高を籠城させてこれを阻止しようとした。
武田の軍勢は横須賀へ向かう行軍の際、家康を怖れて塩貝坂を通らずに浜辺を通ったため、その兵糧の備えは信玄のときと比べてはるかに劣っていた。しかし、昌幸だけは1000余の隊で、さほど怖れることなく山中を通っていったという。(『名将言行録』)
沼田景義を謀殺(昌幸35歳)
昌幸が沼田城を奪取し、沼田支配体制を進めていた天正9年(1581)、この地を旧領としていた沼田景義が挙兵し、沼田城に攻め寄せてきた。このとき沼田城には景義の叔父・金子美濃守がいたが、昌幸はこの金子に大幅な加増を約束して景義暗殺を持ちかけた。そしてこれを承諾した金子は、沼田景義を欺いて沼田城におびき寄せて謀殺してしまったという。(『加沢記』ほか)
武田軍の最期の軍議(昌幸36歳)
天正9年(1582)、信長による武田征伐がはじまり、追い詰められた武田方は新府城での最期の軍議を開いた。このとき昌幸は、自ら支配する・岩櫃城への避難を勝頼に提案したといい、勝頼も一旦それを受け入れたため、準備のために先に急いで岩櫃へ戻ったという。(『真武内伝』)
しかし、その後に小山田信茂が自身の居城・岩殿城での決選を主張、勝頼側近の長坂釣閑斎も真田が譜代の家臣でないことを理由に昌幸の献策を否定したため、勝頼主従は岩殿城へ向かうことになったという。(『甲陽軍鑑』)
新府城からの脱出(昌幸36歳)
勝頼は家臣から多くの人質をとっており、昌幸の家族も人質として新府城内にいたが、武田滅亡の前には返還された。
一説に、昌幸が最後の軍議を経て岩櫃城へ向かったとき、人質として新府城に預けられていた妻子らも引き連れて出発したといい、途中で一揆に襲撃されながらも、昌幸一行は奮戦しながら進んだという。
そうして、兵糧や飼い葉も尽き果てて疲労困憊したところに武装集団が出現した。昌幸らは身構えたが、彼らは昌幸一行を心配してやってきた沼田衆や湯本、鎌原、横谷、西窪ら吾妻衆らであった。
こうして昌幸一行は無事に岩櫃城にたどり着いたという。(『滋野世記』)
また、他説には、向かった先が真田郷であり、真田一行には昌幸の姿はなく、真田の人質が自力で脱出したとみられる話もある。
それによれば、真田の人質は、昌幸の正室・山之手殿・嫡男信幸・次男幸村をはじめ、家来や与力も合わせて300余人であったという。そして信濃の本領・真田郷を目指し、不穏な情勢の下で100人ほどに減ってしまうが、真田母子は家来に守られて無事に真田郷にたどり着いたという。 (『古今沼田記』)
勝頼の死を知り・・(昌幸36歳)
勝頼が自害したことを聞いた昌幸は「わしが付き従っていたら、小山田信茂に欺かれることなどなかったのに。」と嘆き、仇討ちのために小山田討伐の兵を挙げようするが、家来に諌められたという。(『古今沼田記』『長国寺殿御事蹟稿』)
転属期~豊臣政権期
室賀暗殺(昌幸38歳)
天正壬午の乱の和睦条件で、北条方へ沼田領を引き渡すというものが含まれていたが、昌幸は家康からその要請を受けても全く応じていなかった。そこで家康は、天正12年(1584)に昌幸暗殺を計画し、鳥居元忠を介して信濃小県郡の国衆・室賀正武に計画の実行を命じたという。昌幸はすでに室賀家中を調略していたため、暗殺計画を事前に察知しており、上田城に招いて返り討ちにしたという。(『加沢記』)
家康との断交(昌幸39歳)
天正13年(1585)、天正壬午の乱の和睦条件に沿って、北条氏直が家康に沼田領の引き渡しを要請してきたため、家康が本腰を入れて沼田領の引き渡しを昌幸に命じてきたときのこと。
このとき昌幸は「沼田は家康から与えられたものではなく、真田が自ら確保した領地だ。今度、忠節による恩賞の約束も守られていないのだから恨みにすら思っている。その上、沼田を北条に渡せというのは、思いもよらない話だ。」と拒絶し、「主君とは仰ぐものか」と吐き捨てたという。(『三河物語』)
信玄を崇拝(昌幸39歳)
昌幸は、信玄の存命中には絶対の忠誠を誓い、そして敬愛していた。それは天正13年(1585)に、自領・真田郷内に信玄の墓所を再興しようとするほどであった。
関ヶ原と九度山蟄居期
犬伏の別れとその後の沼田乗っ取り(昌幸54歳)
関ヶ原の合戦の直前、下野国・犬伏(栃木県佐野市)で東軍西軍のどちらに味方するのかを密談したという「犬伏の別れ」。その密談の経過は諸説あるが、結果的に昌幸と幸村が西軍の石田方に寝返り、信幸が東軍の徳川方に残ることで敵味方に分かれたという。
また、幸と幸村はその後、居城の上田城に向かうが、その途次で夜中に信幸の居城・沼田城に立ち寄り、密かに乗っ取ろうとした。ところが留守を守る信幸正室の小松姫が出てきて、対峙する構えを見せたため、城に入ることなく沼田から去っていったという。(『真武内伝』)。
念願の甲斐国(昌幸54歳)
関ヶ原時、石田三成からの誘いを受けた昌幸は、信濃と甲斐を恩賞として与えられる約束を得ている。
実のところ、昌幸は信玄が誕生した甲斐国を隠居場所にしたいと考え、同国を所領化することが念願だったという。(『長国寺殿御事蹟稿』)。
九度山追放の時(昌幸54歳)
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の敗退により、昌幸は幸村とともに高野山追放が決定した。
高野山への出発のとき、昌幸は長男・信之と別れ際に、「それにしてもまあ悔しい限りじゃ。内府(=家康)こそ、このような目にあわせてやろうと思ったのに・・」と言い、悔し涙を流したという(『長国寺殿御事蹟稿』)。
真田紐
九度山での生活は、借金をして国元に金銭を催促するほど貧しかったため、昌幸・幸村父子は生計をたてるために "真田紐" という木綿の紐を作ったという。(『長国寺殿御事蹟稿』)
大阪の陣を予言!?(昌幸65歳)
昌幸は死の間際、3年後に徳川と豊臣の決戦が勃発することを予言して、徳川攻略の策を伝授した。そして3年後、昌幸の言う通り、大阪の陣が勃発したという。(『名将言行録』)
死後もなお・・
昌幸の葬儀
昌幸の葬儀に関して、信之が家康の側近・本多正信に尋ねたが、正信は昌幸は重罪人であるから幕府の意向を確かめてから対応するようにと忠告したという。
家康を震撼させる
徳川家康は大坂冬の陣(1614年)において真田が大坂城に入城した知らせを受けると「親の方か?子の方か?」訊ねたという。
これは家康が「謀将」昌幸の病死を半ば疑っていたことを示唆しており、そのときの家康の手はがたがた震えていたという。実際は昌幸ではなく、当時は無名の信繁(真田幸村)と知って安堵したとも伝わっている。
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