「蒲生氏郷」戦人として、文人として活躍した秀吉の側近
- 2019/11/25
蒲生氏郷(がもう うじさと)と言えば、戦国屈指の人気武将である伊達政宗のライバル、というイメージが強いかもしれません。実際、小田原征伐参加後は政宗の抑えとして東北に君臨し、彼に大きなプレッシャーを与えました。
しかし、氏郷が政宗と対峙したのは晩年のわずかな期間だけであり、彼は信長・秀吉の厚い信頼を受け、彼らの躍進を支えた中心という側面が強いのも事実です。この記事では、時の権力者に重用された氏郷の生涯を解説していきます。
しかし、氏郷が政宗と対峙したのは晩年のわずかな期間だけであり、彼は信長・秀吉の厚い信頼を受け、彼らの躍進を支えた中心という側面が強いのも事実です。この記事では、時の権力者に重用された氏郷の生涯を解説していきます。
父に従って織田家臣となる
氏郷は、弘治2(1556)年に六角氏の重臣であった蒲生賢秀の息子として生まれました。蒲生家は幕府奉公衆の職や六角氏に属する立場を務めた名門の一家であり、氏郷が生まれた時点でかなりの実力を有していました。ところが、主家である六角氏の勢力が陰りを見せ始めたのもこの時期で、内紛が絶えない六角家家中では「観音寺騒動」と呼ばれるお家騒動の影響によって重臣クラスでも六角を見限る勢力が現れていたほどです。
騒動に際して蒲生家は解決に向けて奔走してはいたものの、やはり主家への不信感はぬぐい難く、時を同じくして織田信長上洛の噂が領内にも届くようになりました。この懸念は現実のものとなり、信長は永禄11(1568)年に足利義昭を岐阜城に招き、いよいよ上洛作戦を開始します。
ここで信長の「通り道」となった六角領内も騒然とし、彼らの侵攻に際して六角家臣らが次々と離反。重臣たちに見捨てられた六角氏は本拠・観音寺城を捨てて落ち延びました。このとき父・賢秀は日野城を守備していましたが、結局は信長に降伏して服属を表明しています。
氏郷は信長に服属した賢秀の人質として岐阜に送られ、この地で元服を果たしています。翌年には父と共に伊勢大河原城攻めで初陣を飾り、信長の娘である冬姫と結婚することで信長から一族の城である日野城への帰還を許されました。
信長服属以後は父とともに彼の主要な戦に参加しており、元亀元(1570)年には信長の朝倉攻めに従軍。ここで蒲生親子は活躍を見せたようで、戦後は信長から親子連名で加増を受けています。
以後も朝倉・浅井攻め、伊勢長島攻め、長篠の戦いなどに参加し、特に天正6(1579)年からは父に代わって氏郷が単独で出陣しています。彼が一人で参加した戦としては、天正9(1581)年の伊賀国攻めなどが代表的でしょうか。
氏郷が家督そのものを継承したのは本能寺の変直後の天正10(1582)年であると言われており、ここから蒲生家の躍進が幕を開けることになります。
稀代の文化人だった氏郷
さて、氏郷にはもう一つ「文化人」という側面もありましたが、ここではその点に触れてみましょう。和歌・連歌に精通
もともと由緒正しい名門の蒲生家は「歌人」の一族として有名です。氏郷もまた一流の技量を有していました。実際、人質として岐阜に送られる1年前には遠方からの客人を酒と歌でもてなしています。この当時の彼は弱冠11歳でありながら、のちに文化人としても高い評価を得る片鱗をみせていたのです。
彼は和歌・連歌を巧みに操り、武士と言えども教養が重視された安土桃山時代において存在感を発揮しました。
信長と相撲で交流?
また、信長とは「相撲」を通じて交流を図っていたことも有名で、大の相撲好きとして知られていた彼の影響を受けています。氏郷は信長家臣の有力力士と相撲を取って余暇を楽しんだほか、自身も後には家臣らと相撲に興じていたことが確認されており、相撲上手として知られていた家臣と対決した際「私は二度負けたが、主君相手でも手を抜かない実直な心が見事だ」として領地を加増した、というエピソードも残されているほどです。
利休七哲の一人
さらに、茶道や歌を深く理解する氏郷はとても多くの人物たちと良好な関係を築いていたとされ、秀吉だけでなく前田利家・細川忠興・高山右近といった有力大名らと交流を重ねています。氏郷は茶人としての評価が非常に高く、千利休の弟子において最も優れた人物である「利休七哲」に選出され、生前の利休からも茶人としての腕前を買われています。利休が秀吉より切腹を言い渡された後は彼の親類庇護に努め、千家の放免を秀吉から勝ち取っています。
本能寺後は秀吉に属し、大名と化す
さて、ここからまた政治・軍事的事蹟に話を戻します。本能寺の変が勃発したとき、氏郷は当時居城である日野城にありました。知らせを受けた氏郷はすぐさま行動に移り、クーデターによって身の危険が予想された信長の妻や女房を城にかくまいます。
結果として山崎の戦いで光秀が討たれたことにより、信長政権で重臣として君臨していた羽柴秀吉や柴田勝家らから先の行動を評価されて1万石の加増を受けました。その後は信長後継者の座をめぐって重臣らが対立しましたが、氏郷は秀吉への服属を表明。
賤ケ岳の戦いで功を挙げたことや、勝家とも良好な関係を築いていながら自分に従ったことに感動した秀吉は、戦後に伊勢亀山城を与えています。
以後、氏郷は秀吉から厚い信頼を受け、天正13(1585)年の小牧・長久手の戦いに際しても先鋒を務めるなど活躍。一連の攻防戦では在地領主たちが籠る美濃加賀野井城を攻め、彼らをせん滅するという功績を残しました。この功によって戦後南伊勢に12万石を与えられ、松ヶ島城を領有する大名に成長しています。
小牧・長久手で秀吉方と家康・織田信雄方が痛み分けに終わったことによって、結果的に信雄が秀吉へと服属することとなり、家康は天下取りの大義名分を失いました。そのため、ここからは秀吉の天下統一に向けた雑賀攻めや四国攻めに先兵として参加し、九州攻めでは猛将としての名を不動のものとします。
もともとこれ以前に氏郷が洗礼を受けていたこともあり、キリシタン勢力が根強い九州の「キリシタン開放」を掲げた秀吉の戦略で、黒田官兵衛を中心に蒲生氏郷や小西行長といったキリシタン大名たちが九州を攻めました。
こうした名目があったこともあり、キリシタン大名らの士気・活躍には目覚ましいものがあったと考えられています。
戦後にはこれまでの本拠である松ヶ島城から、新たに築城した松阪城へと本拠を移しました。この城の完成については氏郷の死後までかかったようですが、彼はこの地で城下町を発展させるとともに、近代的兵農分離を推し進めていったと考えられています。
晩年は東北の平定に腐心する
秀吉の天下統一事業が完成に近づくと、いまだに抵抗を続けているのは北条氏や伊達氏ら東国の大名たちに限られることになりました。北条氏は服属目前でしたが、彼らが真田領の名胡桃城を奪取したことに秀吉は激怒。天正18(1590)年に小田原攻めが敢行されます。
氏郷はこの戦に戦死をも覚悟した決死の姿勢で臨み、彼の活躍もあって見事に北条氏を討ち滅ぼしました。また、小田原への参陣を促していた伊達政宗がようやく秀吉のもとに馳せ参じたため、ここに天下統一は完成をみるのです。
しかし、氏郷の気苦労はここから幕を開けます。
天下人として秀吉が出した停戦令を無視したことで政宗が会津黒川城を没収、同城には代わりに氏郷が入城することになりました。彼は陸奥・越後に42万石という大領を与えられたのですが、それは同時に政宗をはじめとする東北勢力の監視をする役目もあったのです。
東北では豊臣政権のルールとして太閤検地・刀狩りを強行しましたが、これに反発する形で葛西大崎一揆が巻き起こってしまいます。氏郷はこれらの対処に苦慮し、さらに一揆を陽動する勢力として政宗の影がチラつくなど、土地勘のない彼はやがて自身の立場を危ういものにしていきます。
一時は政宗の謀反騒ぎをめぐって秀吉の怒りを買ったとも伝わっていますが、最終的には前田利家の仲介によって政宗と和解し、騒動はようやく一段落します。
ところが、伊達氏との関係を改善した直後、今度は南部氏の一族に属する九戸政実が決起。葛西大崎一揆の残党も含めてまたもや一大勢力と化した一揆勢に対し、氏郷は豊臣主力部隊として対峙しました。この乱は軍勢の差もあってすぐに鎮圧され、ここにようやく、手を焼いてきた東北の平定が完了したといってもよいでしょう。
一連の恩賞として氏郷には18万石余りが加増され、総石高にして実に72万石を有する大大名に成長しました。家臣団もかなり高いレベルで統率されており、まさしく豊臣政権における東北の総大将といった風格を感じます。
文禄元(1592)年には会津若松城の本丸も完成し、まさしく盛りを迎えた氏郷。しかし、この年から秀吉による朝鮮出兵も開始され、肥前名護屋城に参陣したものの、やがて陣中で体調を崩したようです。
氏郷はかなり多忙な日々を送っていたことが確認されており、それが命取りになったのかもしれません。病状の悪化は進み、文禄4(1596)年にその生涯を終えました。
まとめ
蒲生家を継いだのは息子の蒲生秀行でしたが、間もなく家臣団の結束にほころびが見え、それを咎められて領地は大幅に減封されてしまいます。しかし、関ケ原で東軍に属したことによって戦後にふたたび陸奥60万石を与えられ、会津若松城へと帰り咲いています。こうして大大名となった秀行でしたが、彼も若くして亡くなってしまうと二代後の蒲生忠知を最後に蒲生家は断絶。結局、彼らの運命は江戸時代初期に尽きてしまいます。
武勇に優れていただけでなく、高度な教養も持ち合わせ、様々な人脈を形成していった蒲生氏郷。家が断絶してもなお、彼の影響は後世の本居宣長や山鹿素行といった学者たちにまで伝わっていくことになるのです。
【参考文献】
- 『国史大辞典』
- 歴史群像編集部『戦国時代人物事典』、学研パブリッシング、2009年。
- 藤田達生『蒲生氏郷』ミネルヴァ書房、2012年。
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