【家紋】智将の黒田官兵衛と勇将の長政。影の功名「黒田氏」の家紋について
- 2019/11/07
日本史上、あまたの戦国武将が群雄割拠してきましたが、名将とされる人物ほど優秀な家臣やブレーンを擁していたことは周知のとおりです。特に将たる者は自身が直接戦闘を行うというよりも、軍団を指揮して戦全体を見渡したり、周辺諸国とのパワーバランスを保つ外交政策を行ったりと、大局的な観点や判断が必要とされました。そういった局面で重宝されたのが軍略や智謀に長けた知恵者としての人材で、現代風に「参謀」や「軍師」とも呼べる存在でした。
当時の言葉で軍師というと、戦や築城などの日取りや方角の吉凶を占ったりする「軍配者」を指す場合が多いのですが、現代的な意味において戦国期を代表する「軍師」を挙げるとすれば、「黒田官兵衛孝高(よしたか)」をイメージする人も多いのではないでしょうか。
大河ドラマの主人公として扱われたことでもさらに認知度を上げた官兵衛は、従来「黒田如水」の法名でも知られた知略派の戦国武将として印象付けられています。また、その嫡男である「黒田長政」は智将タイプの父とは対照的な、「勇将」の範としても語られることがあります。
栄枯盛衰著しい戦国期を生き延び、後に「黒田藩」とも俗称される福岡藩の礎を築いた官兵衛・長政父子。そこには単なる調略だけではない、人間同士の絆に裏打ちされた生きざまがありました。今回はそんな、黒田氏の家紋についてのお話です。
当時の言葉で軍師というと、戦や築城などの日取りや方角の吉凶を占ったりする「軍配者」を指す場合が多いのですが、現代的な意味において戦国期を代表する「軍師」を挙げるとすれば、「黒田官兵衛孝高(よしたか)」をイメージする人も多いのではないでしょうか。
大河ドラマの主人公として扱われたことでもさらに認知度を上げた官兵衛は、従来「黒田如水」の法名でも知られた知略派の戦国武将として印象付けられています。また、その嫡男である「黒田長政」は智将タイプの父とは対照的な、「勇将」の範としても語られることがあります。
栄枯盛衰著しい戦国期を生き延び、後に「黒田藩」とも俗称される福岡藩の礎を築いた官兵衛・長政父子。そこには単なる調略だけではない、人間同士の絆に裏打ちされた生きざまがありました。今回はそんな、黒田氏の家紋についてのお話です。
「黒田氏」とは
まずは黒田官兵衛・長政父子が属する黒田氏の歴史を概観してみましょう。「黒田」という氏はいくつかありますが、官兵衛らの祖先は戦国後期に播磨国(現在の兵庫県南西部あたり)の国人領主である「黒田重隆」とされています。
黒田氏は播磨の豪族であった「小寺氏」の重臣であり、やがて織田信長が台頭するとその配下に収まります。織田家の重臣となっていた秀吉のもと、官兵衛はその優れた武略をもって重用されます。
当時の官兵衛は父の代から本来の主家との姻戚関係から「小寺」の氏を名乗っていましたが、小寺氏が織田氏と対立したことから「黒田」に復姓しています。
豊臣政権下での重要戦力として、秀吉の「軍師」とも例えられる官兵衛ですが、関ケ原の合戦において黒田氏は東軍・徳川方に合力します。この際に豊臣方から多くの有力武将を引き抜くという工作を行い、徳川幕府成立の陰の功労者とも称される由縁となっています。
その武功により北九州の筑前国を所領として授かり、福岡藩(黒田藩)の基礎となりました。
家紋は「黒田藤巴」、藤はあの名族の印
官兵衛・長政らが使用した紋は「橘藤巴」と呼ばれるタイプのものです。三筋の藤を「巴」の形に配し、その中心部分に橘を描いた雅やかなデザインです。本来は播磨時代の主家である小寺氏の紋であり、先に述べた通り官兵衛も当初は小寺氏を名乗っていたため、自然に藤巴を使ったものと考えられています。
藤の根本に三つの橘を配する小寺氏の藤巴に対し、黒田氏の「黒田藤巴」は、中心に橘を一つだけあしらうアレンジを加えています。そもそも藤の紋を持つ家系はその源流が「藤原氏」にあるとされ、その名の通り「藤」の一字や紋が一族の証ともいわれています。
もちろん各家の系譜には不明な点も多く、そのすべてに信憑性があるとは考えにくいものの、黒田氏は独自の藤系統の家紋を使い続けました。また、替紋として「永楽通宝」の銭紋、白抜きの丸である「黒餅(こくもち)」の存在も知られています。
父子ともに、人間味あふれるエピソードの数々
それぞれともすれば冷徹な策略家、そして生粋の戦国武者というイメージで語られる官兵衛・長政の父子ですが、今に伝わるエピソードには深い情を感じさせるものも少なくありません。たとえば官兵衛は家臣に対してめったに声を荒げることがなく、叱責したとしてもその後にさりげなく挽回の機会を用意するなどの気遣いをみせたといいます。
晩年には後継者の長政へと家臣団の忠義を向けさせるため、あえて冷たい態度をとったり、優秀な人材を次代に残すために自身の死後、家臣の殉職を禁じたりするなどの言行が知られています。
一方の長政も決して武断なだけではなく、関ケ原で敗北した石田三成に対して藤堂高虎とただ二人、礼節をもって接したという伝承もあります。
かつて官兵衛が荒木村重のもとに幽閉されていた頃、連絡が絶えたことから織田信長に裏切りとみなされ、幼少の長政は命を絶たれるはずだったそうです。それを救って匿ったのが、官兵衛の同輩で同じく軍師として名を馳せた「竹中半兵衛」だったのです。
生死の運命が紙一重であった戦国の世においても、人と人とのつながりの温かさを官兵衛も長政も、骨身にしみて理解していたのかもしれません。
おわりに
「天下を狙える」とまでいわれ、その軍略に畏敬の念をもたれた黒田官兵衛。そしてその後を継ぎ、福岡藩盤石の礎となった黒田長政。もし関ケ原の合戦で黒田の合力がなければ、徳川の世が訪れることはなかったとすら評されることのある、徳川幕府にとって「陰の功労者」とも呼べる存在です。一見優美な藤の紋も、戦場では天下の趨勢を左右する御旗のように映ったのかもしれませんね。
【参考文献】
- 『見聞諸家紋』 室町時代(新日本古典籍データベースより)
- 「豪傑の遺訓 黒田孝高」『豪傑叢談;第4編』 岩井正次郎 1900 大学館
- 「日本の家紋」『家政研究 15』 奥平志づ江 1983 文教大学女子短期大学部家政科
- 「「見聞諸家紋」群の系譜」『弘前大学國史研究 99』 秋田四郎 1995 弘前大学國史研究会
- 『日本史諸家系図人名辞典』 監修:小和田哲男 2003 講談社
- 『戦国武将100家紋・旗・馬印FILE』 大野信長 2009 学研
- 『歴史人 別冊 完全保存版 戦国武将の家紋の真実』 2014 KKベストセラーズ
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