「久松長家」は家康の天下取りを血縁で支えた男だった?
- 2023/01/05
家康にとって久松長家はとても重要な人物です。それは母親を通じた義理の兄弟が多数生まれ、実兄弟のいない家康にとって数少ない血縁だったことがあげられます。長家自身と血縁はなくとも、その子は親類が少ない家康にとって信頼できる血縁となって家康を支えたのです。そんな久松長家について、今回は考察していきたいと思います。
久松氏とはどんな一族なのか
久松氏は元々菅原姓と言われています。『姓氏家系大辞典』によると、菅原道真の3代後にあたる菅原久松麻呂が尾張国智多郡阿古居に配流されてこの地に根づいたという記述があります。その後、14代後の菅原道定が久松氏を名乗り、斯波氏の被官となって武士化したようです。代々坂部城を本拠地としていました。長家の曾祖父にあたる定氏は、応仁の乱に際して西軍の斯波義廉に従って京都に上り、合戦に参加したことが確認されています。祖父の定益は永正7年(1510)に死去しています。知多半島において佐治氏との抗争が本格化したのがこの定益の時代と見られています。この時代は応仁の乱の影響が全国に波及した時代です。それが知多半島にも及んだと考えられます。父の定義の時代には、織田信秀に従って軍功をあげたと言われていますが、年代などはわかっていません。
久松長家と松平氏・織田氏の関係
長家は大永6年(1526)に誕生しました。弟に次男定重(700石旗本として明治時代まで存続)の存在が確認されています。初名は代々の「定」の字を継いで「定俊」だったと言われています。しかし、父の定義が織田氏に従った頃に改名して「長家」を名乗っています。この「長」の字が信長から一字をもらったとすると、信長の元服年である天文16年(1546)以後のことと判断できます。
この前後から久松氏周辺の状況が大きく変わっていきます。
天文13年(1543)には、家康の母・於大の方の実家にあたる水野氏がこれまでの親今川派から親織田派に方針転換をしました。新たな当主に水野信元が就いたことがその背景にあります。
この当時、家康の父である松平広忠は西の織田に対抗するために今川義元の庇護下にありました。つまり、方針転換をきっかけに松平氏と水野氏の関係にもヒビが入ったことになります。結局、於大の方は離縁されて、織田派となった水野の実家に戻っているのです。
離縁については、水野信元の正室が広忠・家康親子と対立した松平信定の娘だったことも原因とされています。歴史家の平野明夫氏は、那古野を織田信秀が落とした天文7年(1538)以降、水野氏はかなり織田氏の影響力が強くなった、と考えているようです。
『知多郡史』によれば、当時の知多半島は水野氏が織田方、佐治氏が今川方につく形になっていました。佐治氏は桶狭間の戦いの後に信長の臣下となり、信長の妹である於犬の方が佐治信方に嫁いでいます。
しかし当時は今川氏の力が強い時代であり、元々佐治氏と対立している久松氏は織田氏を頼るのが自然でしょう。久松氏は佐治氏と対立し、水野氏の影響が強かったことで、一連の動きで水野氏と協力していたことが伺えます。実際、久松長家の初婚は水野氏の女性とされており、この女性から長男の信俊が産まれています。
なお、その後この女性の存在は確認できません。のちに同じ水野氏から於大が長家に嫁いだことから、信俊の出産時、もしくはその後に亡くなったと見られています。
織田氏の勢力拡大によって佐治氏は四方を敵に囲まれる形となりました。天文15年(1546)には知多半島の先端部に領地を有する戸田氏も織田方に寝返ったことで、一時的に北に織田氏、南に戸田氏、東に水野氏、北東に久松氏(西は海)がいる状況になったのです。
このため、佐治氏は久松氏と同年中に久松氏と和睦しています。その際、久松信俊の妻に佐治氏の女性(時期的に佐治信方娘か)を迎えています。ただ、当時の信俊は長家の元服時期から推測するとまだ3〜5歳程度です。実際には同年代かやや上の佐治氏の娘が、実質人質のような形で久松氏に預けられたと見ていいでしょう。
こうしたことから、於大が長家に嫁いだのは天文19年(1549)頃と推測されています。離縁後すぐに久松氏に嫁いだという説もあります(阿久比町に伝わる昔話はこちらを元にした話になっています)が、平野明夫氏はこれを否定しています。
これは、天文15年(1546)に松平広忠と久松長家が連携して活動していた時期が存在する書状が発見されているため、この時期に離縁した女性の再嫁先になっていたとは考えにくいためです。確実な時期は於大が子の康元を産んだ天文22年(1552)年以前で天文15年(1546)以後という時期になります。
久松長家が家康の名前の元になっている?
こうして長家は離縁した於大と婚姻し、家康の義父となったわけです。当時の家康(幼名は竹千代)が織田家の人質として2年間、その後は今川家の人質として長く過ごすことになるのは周知のとおりです。やがて成長した家康は、永禄3年(1560)の桶狭間の戦い後に今川氏から独立。そして今川義元からの決別のために「元康」から「家康」に改名しています。「元」の字を外すことになり、選ばれたのが義父・長家の「家」の字だったという説があります。
久松長家はこの桶狭間後に大きな外交の変化を迫られました。佐治氏が織田氏に従うようになり、家康は今川からの独立に向けて動き出しました。戸田氏の当主・戸田重貞はその家康に従うことになり、久松長家も織田氏か松平氏につく必要に迫られたのです。
この際、久松長家は於大の方の縁もあって家康の配下に加わりました。於大の方の血縁があれば、自身が無下に扱われることはないだろうという打算もあったと思われます。
家康は久松長家を味方に迎え入れ、厚遇しています。長家と於大の方の間に生まれた子ども(康元・康俊・定勝)に松平姓を名乗ることを許しました。康元・康俊は家康から康の字を受け継いでいるため、異父兄弟として親族に組みこんだ形です。一方、長家の庶長子である信俊は水野氏との縁から織田信長に仕えさせています。家の存続を目指し、双方の家に万一があっても家を残そうとしたことが伺えます。
その後、長家は上之郷城の城主となります。この地は東三河と西三河を繋ぐ要地で、今川支配の頃は今川義元の妹が嫁いだ鵜殿氏に任されていました。それだけの要地のため、家康は血縁関係のある久松氏に任せたと思われます。実際には長家は城に入らず、元服したばかりの康元が入城したという説もあります。
長家がいつ俊勝に改名したかは詳細がわかっていません。ただし、桶狭間後も長家を名乗っていたのは文書上(永禄8年(1565)の安楽寺寄進状)で確認できます。その後、天正3年(1576)には俊勝に改名しているので、筆者は家康の浜松入城時期である元亀元年(1570)頃ではないかと推測しています。
久松長家のその後と子孫
天正3年(1576)、長家は水野信元が冤罪によって家康に討たれたことに怒って隠退しています。原因は織田信長が信元に謀反の疑いをかけ、家康がそれを信じたためです。事情を知らなかった長家は信元を家康の元に呼ぶ役目を任され、信元は家康の家臣に討たれてしまいます。信元は長家の妻の実家でもあるため、この怒りは当然といえるでしょう。実際、その後水野氏は信元の末弟・忠重によって再興されています。
同様に、天正5年(1577)には織田氏の家臣となった久松信俊も信長に謀反を疑われて大坂・四天王寺で自害しています。この一件もあって、長家は表舞台から身を引いたのかもしれません。そのため、その後の長家について詳細はわかっていません。『寛政重脩諸家譜』では天正15年(1587)に死亡したと伝わっています。
於大の方は慶長7年(1602)まで生きて家康の側にいたことがわかっていますが、長家の死後、久松氏の菩提寺である安楽寺で剃髪して伝通院と号しています。於大との間に生まれた子は下総関宿藩・下総多古藩・遠江掛川藩・伊勢桑名藩・伊予松山藩などの藩主となっています。また、保科正直に嫁いだ多劫姫など、多くの家にその血が受け継がれています。愛媛県知事を務めた久松定武氏も長家の子孫です。
おわりに
久松長家の生涯は周辺状況に大きく左右されていたことが伺えます。佐治氏との対立から水野氏と協力せざるをえず、水野氏の外交方針に振り回される前半生になっています。その後、家康の台頭で家康という血縁の庇護に入ったことで人生は安定していきます。その結果、複数の子孫が現在まで繋がったことを考えると、彼の処世術は大河ドラマの公式紹介のように、時代の風を読んだものだったのかもしれません。長家は家康と一向一揆の対立後、両者の和解に奔走したことでも知られています。菩提寺である安楽寺もかなり大切にしていたことが伝わっており、仏教に篤い人物だったのかもしれません。困った時の神頼みではありませんが、信心と血縁の力で戦国の世を渡り切ったという意味では、とても面白い人物だったと言えるでしょう。
【主な参考文献】
- 『蒲郡市誌』(1972年)
- 『知多郡史』(1923年)
- 『姓氏家系大辞典 第5巻』(国会図書館デジタルアーカイブ)
- 堀田正敦『寛政重脩諸家譜』(国立国会図書館デジタルアーカイブ)
- 平野明夫『三河松平一族』(新人物往来社、2002年)
- 阿久比町HP 於大の方
- 松山市HP 松山市名誉市民 久松定武
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