神君・徳川家康は竹千代時代にも黒歴史があった!?

静岡駅前の竹千代君像
静岡駅前の竹千代君像
 徳川家康と言えば日本三英傑の1人であり、その知名度はかなり高い。そして、江戸幕府が200年以上も続いた影響で、将軍の代を重ねるごとに神格化がかなり進んだことから、家康に関する記述はあまりにも立派なものとなってしまい、定説のみを信じると、その実像がやや不透明になってしまいがちである。

 しかし幼少期の家康に関する史料を見ると、その意外な一面を垣間見ることがある。今回は竹千代についての史料からその実像に迫ってみたいと思う。

竹千代誕生

 徳川家康は天文11年(1543)12月に三河の岡崎城で生まれた。父は三河の土豪・松平広忠、母は水野忠政の娘・於大の方であった。幼名が竹千代だったというのは、あまりに有名な話である。

 一方で竹千代の誕生にまつわる、あまり知られていない伝承も存在する。実は、なかなか子宝に恵まれなかった広忠と於大は、鳳来寺に祈願に行ったとされる。すると、程なく於大は竹千代を宿し「寅年、寅月、寅日、寅の刻」に生まれたと言うのだ。驚いたことに、その後鳳来寺の「真達羅大将(しんだらたいしょう)」が消えたと伝わる。

 実は幼名・竹千代にも知る人ぞ知る由来が存在するという。何でも、家康誕生後間もなく三河の大浜で連歌の会が開かれた際に、父・松平広忠が詠んだ「めぐりはひろき園のちよ竹」にちなんで命名されたらしい。そして、さらにはこの連歌の会で使用された、硯箱・水滴・硯そして文台まで現存しているというのだから、相当な念のいれようである。

 家康が生まれると鳳来寺の「真達羅大将(しんだらたいしょう)」が消えたとかいう伝承の類は、明らかに作り話とわかるので罪がないといえばない。しかし連歌の会でのエピソードは妙にリアルで、証拠の品もそろい過ぎているため、逆に胡散臭さを感じてしまうのだ。

 私が前提として考えているのは、家康が「神君」として神格化され過ぎているという点である。大浜の連歌の会で「竹千代」という幼名が決められたというのは、或いは本当だったのかもしれない。ただ、その際に使用された硯箱・水滴・硯を拝領し、現存しているというのは少々出来過ぎの感があろう。
 

織田と今川

 誕生早々、竹千代に試練が訪れる。松平氏と共に今川方であった水野氏だが、信元が当主となるや方針を転換。なんと、織田方に寝返ったのだ。

 これはすなわち松平氏と水野氏の同盟が解消されたということである。水野氏は尾張国南部の知多半島と三河国西部に領地をもつ、松平氏と同等の勢力を誇る豪族であり、そもそも広忠と於大の方は政略結婚であった。

松平氏と水野氏の関連略系図
松平氏と水野氏の関連略系図

 こうして広忠は即座に於大を離縁する。ただ、広忠の速すぎる判断から推察するに、どうも信元は家督を継ぐ前から織田寄りの立場に鞍替えしていたようだ。おそらく信元が家督を継ぐ前から、もしものときは於大を離縁するという流れが出来ていたのではないか。ともあれ、竹千代は3歳にして母と生き別れることになってしまう。

 それにしても、信元は何故織田方に寝返ったのであろうか。この当時、織田信秀は尾張半国を統治するのみであるから、その石高は20万石程度であったと思われる。かたや今川は駿河、遠江、三河合わせて50万石ほどを領有していたと推察される。

 圧倒的な国力を今川を袖にした理由は、どうやら織田の経済力であったようだ。信秀は尾張の津島湊と熱田湊という2大交易地を押さえ、莫大な利益を上げていた。この商業活動による利益を両家に加えると、国力の差はかなり縮小する。

 この経済力を背景に、織田は遠からず尾張を統一すると信元は読んでいたのではないか。そうなれば、今川とも互角、もしくはそれ以上に渡り合えると判断したのだろう。今川が、石高で劣る織田を敵対視していたのには、このような事情があったと思われる。

 この時期の三河松平氏は、広忠が今川の支援を受けて当主となったこともあり、今川に完全に隷属した状況であった。三河自体は30万石ほどあったにもかかわらず、広忠の領地は10万石もなかったのではないだろうか。

 織田信秀は三河も当然狙っていたから、松平は今川と織田の関係に翻弄される立場にあったと言えるだろう。

人質として駿府へ

 天文16年(1547)、竹千代は人質として駿府へ送られることとなった。ことの次第は、同年に織田信秀が大軍を岡崎に差し向けたことに端を発する。広忠は今川義元に援軍を要請するが、その際に人質を送ることを交換条件とした。6歳の竹千代を人質として、義元のいる駿府に送ることにしたのである。

 ところがその道中、護送役の田原城主・戸田宗光が織田方に寝返り、なんと竹千代は信秀に売り飛ばされてしまう。その額は、『三河物語』によれば永楽銭千貫文であるが、『松平記』によると百貫文だったとある。弱小とは言え、岡崎城主の嫡男が売り飛ばされるとは、人生の序盤からなんとも過酷な体験をしたものだ。

 竹千代を盾に織田方は広忠を味方に引き込もうと、何度となく調略を試みるも「息子を殺さんと欲せば即ち殺せ、吾一子の故を以て信を隣国に失はんや」と言って応じなかったという。これを聞いた信秀は「広忠良将なり」と感嘆したと伝わる。

 ただし、これには異説も存在する。近年、天文16年9月に岡崎城が織田によって攻略されたとする文書の存在が明らかとなり、広忠が降伏の印として竹千代を人質として送った可能性も出てきている。

 いずれの説にしても結果、竹千代は2年あまりの間、織田の人質として熱田の豪商・加藤図書助順盛の屋敷に幽閉されたのだ。なお、この時期の天文18年(1549)に父・広忠が死去している。死因は病死とも、暗殺とも言われるが今もって真相は不明である。

 宮下英樹氏のマンガ『センゴク外伝 桶狭間戦記』では、今川義元が謀略によって織田信秀に松平広忠を暗殺せざるを得ないよう仕向けたという説をとっている。この筋書きが実に巧妙に組み立てられていて、あるいはそうだったかも知れないと、私は感じてしまう。

 ともかく、広忠の死を機に義元の軍師・太原雪斎が動き出す。雪斎は織田方の安祥城を落城させ、城主の織田信広を生け捕りにしてしまった。生け捕りにした理由はただ1つ、織田の元にいた竹千代と人質交換を行うためであった。

 雪斎は尾張の笠覆寺にて竹千代と信広との人質交換を実現させる。8歳となっていた竹千代は駿府に送られ、松平屋敷で暮らすこととなった。

駿府での人質生活

 駿府での人質生活は元服するまでは確かな記録がほとんどないようである。まず、駿府のどこに住んでいたのかであるが、以下のように諸説あって定かではない。

  • 『松平記』   :宮の前に御屋敷あり
  • 『武徳編年集成』:宮ヶ崎
  • 『三河物語』  :駿府の少将の宮の町

 上記にみるように史料によって表現が異なっているが、"宮"という1字は共通しており、これが”少将の宮”という神社(=少将井社)を示しているらしい。江戸時代には駿府城の南端の位置にあったといい、その場所に竹千代が住んでいた可能性が高いようである。

 また、竹千代の屋敷の左隣は、北条氏から今川への人質として送られていた北条氏規の屋敷だったという(『駿国雑志』)。

 氏規と竹千代は同じ境遇からか、仲がよかったと伝えられている。ちなみに氏規は北条3代目・北条氏康の五男であり、秀吉の小田原征伐の際には、たびたび上洛して秀吉と交渉を重ね、豊臣政権との衝突回避に奔走している。

誰に養育・教育されたのか?

 さて、次に竹千代は誰から養育・教育を受けていたかである。

 一人は祖母・於富の方(おとみ)である。彼女は 於大の方の母であり、駿府で義元の許可を得て竹千代が16歳になるまで養育したといい、当時彼女は出家して源応尼と名乗り、駿府の智源院という寺にいて竹千代の手習いの相手をしたという。

 もう一人は過去に今川義元も教育した今川の軍師・太原雪斎である。竹千代は駿府の臨済寺で雪斎から教えをうけたものとみられている。

三河の子倅

 松平屋敷は今川の家臣孕石(はらみいし)元泰の屋敷と北条屋敷の間にあったが、これがトラブルの始まりであった。

 当時、竹千代は鷹を飼っていたという。この鷹が、獲った獲物や糞を孕石屋敷に何度となく落としたから大変である。自分の鷹が粗相をするたびに孕石屋敷に謝りに行くのであるが、元泰も堪りかねたのか「三河の小倅の顔を見るのは飽き飽きだ。」と叱りつけた。竹千代はこのことを根に持っていたという。

 ここで1点気になるのは、もう片方のお隣であった北条屋敷に鷹は迷い込まなかったのであろうかということだろう。おそらく、迷い込んだこともあったであろうが北条家の対応は孕石元泰とは全く違っていたのではないだろうか。北条屋敷に住んでいたのは小田原北条氏からの人質であった北条氏規であった。氏規と竹千代は齢も近く、割と関係は良好だったのではないか。

 ところで、この話には意外な後日談がある。これより約30年後の天正9年(1581)、織田徳川連合軍は武田征伐を開始。高天神山城の攻略を命じられた家康は、これを陥落させる。落城の際に、城を脱出した武将たちもいたという。そのほとんどが捕縛されたが、その中に孕石元泰がいたのだ。

 おそらく、家康は元泰が今川没落後、武田に仕えていたことは知っていただろう。捕縛された元泰は切腹させられるが、その背景には、家康の恨みがあったとされる。

 これが事実であれば、その執念深さたるや尋常でない。ちなみに降伏したにもかかわらず、切腹となったのは元泰のみだという。

 ところで、この一件が記されている史料としては『三河物語』が挙げられる。筆者はかの有名な大久保彦左衛門である。基本的にこの史料は徳川贔屓のスタンスで知られるが、孕石元泰との一件に関しては家康に対して批判的な雰囲気が見て取れる。確かに史料の記述のみ考えれば、単に執念深く逆恨みし、30年後にそれを晴らしたという話になってしまう。

 家康はそこまで器の小さい男ではないだろう。ひとつ気になるのは、家康が大の鷹好きであったということだ。ひょっとすると、自分が大事にしている鷹が元泰の屋敷に迷い込んだときに鷹が酷い目にあい、それを深く恨んだのかもしれない。

初陣

 天文24年(1555)、竹千代は元服し次郎三郎元信と名乗った。ちなみに「元」の字は義元から賜った偏諱である。弘治3年(1557)、さらに蔵人元康と改名し、義元の姪の瀬名姫と結婚。その直後元康は義元より西三河への出陣を命じられる。

 当時この地では国人衆の大規模な反乱が起きていたが、その背後には織田の調略があったようだ。元康は、織田方に通じていた加茂郡寺部城主・鈴木重辰に攻撃を仕掛けた。まずは城下を焼き払うといったん引き上げ、転じてその周辺の地域を攻めた。

 これが元康の初陣であるが、この戦いで戦功を挙げ、義元から松平の旧領であった山中300貫文の地を返還され腰刀まで賜っている。

桶狭間

 天文21年(1552)に信長が織田家の家督を継いで以降、尾張の地では信長の勢力が徐々に増していった。永禄3年(1560)の時点で、信長に対抗しうる織田内部の勢力は犬山城の織田信清くらいのものであった。

 同年の5月、義元は尾張に侵攻する。その兵数は1万とも4万とも言われるが、義元が進軍を開始したのは上洛が目的であったとする定説は覆されつつある。歴史学者の高柳光壽氏は、義元の尾張への侵攻は三河をほぼ手中に収めた義元が、その先にある尾張を攻略する動きに出たという説を唱えた。

 私もその通りだと思う。ただ、義元の脳裏には台頭してきた信長に対する警戒もあったと思われる。強大な経済力を有する信長が、尾張を統一してしまっては厄介極まりないと考えたのではないか。

 この尾張侵攻の先鋒を任されたのが、元康であった。この最中に大高城内の兵糧が足りないことが判明。義元は元康に兵糧の補給を命じたのである。大高城は既に織田軍に包囲されていたので、この任務はそう簡単ではなかった。

 5月18日、元康隊は包囲網を突破するべく、鷲津砦と丸根砦の間を抜けることを試み、見事成功させる。翌19日は丸根の砦を落とすなど、獅子奮迅の活躍を見せた元康であったが、奇しくもその日義元は、織田軍に討ち取られてしまう。大高城で休息をとっていた元康は、義元討死の報に接すると大高城を撤収。しばらく松平家の菩提寺である大樹寺に駐屯し、情勢を見極めた上で今川が撤収した岡崎城に入った。

 これより、元康は今川からの自立を目指し始めたのである。
 

あとがき

 この後の元康の足跡についてはよく知られている。信長と清州同盟を結び家康と改名したのであるが、義元からの偏諱を捨てることによって、今川からの自立がなされたと言って良いだろう。しかし、当初は対等な同盟であった清州同盟も、信長の勢力圏拡大によって共通の利害を失い、従属的な同盟へと変貌していく。

 家康はおそらく駿府で人質となっていた頃を思い出したのではないだろうか。少なくともその頃よりは、まだましな状況だと思っていたに違いない。

 そう言えば、家康は生涯で何度か切腹をする所を止められたと言われている。

 その最初が義元が討たれ大樹寺に一時的に駐屯していた際に敵に取り囲まれ、前途を悲観して切腹しようとした所を住職であった登誉天室に止められている。

 2度目が本能寺の変で横死した際。堺にいた家康であったが、信長の死に取り乱し光秀のいる京に上り追腹を切るつもりであった所を、本多忠勝ら家臣たちに説得されて止めている。

 3度目が大阪夏の陣で真田信繁に本陣に2度にわたり突撃を仕掛けられたときで、そのあまりの猛攻に切腹を覚悟するも周囲の家臣に止められ思いとどまっている。

 いずれも、家康にとって転換点となった出来事であるが、この振る舞いを見ていると家康という男は意外に潔い人物だったのかも知れないと思ってしまうのだ。やはり孕石元泰との一件は、よっぽどのことがあったのではないかと思いたくなる私がいる。


【主な参考文献】
  • 大久保忠教・小林 賢章『現代語訳 三河物語』2018年
  • 宮本義己 『徳川家康の秘密』KKベストセラーズ 1992年
  • 徳川義宣編 『徳川家康真蹟集』角川書店 1983年
  • 新行紀一「三河後風土記」 『国史大辞典』吉川弘文館 1997年
  • 柴裕之 『徳川家康境界の領主から天下人へ』平凡社 2017年
  • 渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎 2022年
  • 二木謙一『徳川家康』筑摩書房  1998年
  • 柴裕之 編『シリーズ・織豊大名の研究 第十巻 徳川家康』戎光祥出版 2021年

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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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