酒井忠次の妻「碓井姫」は、岡崎にいる数少ない家康の親戚だった!
- 2023/01/31
実際、大河ドラマの公式サイトでは「個性的な家臣団を支えるマネージャーのような存在」であり、「瀬名や家康の母・於大と集まり、他愛もない世間話に花を咲かせる」と紹介されています。駿府から嫁いできた瀬名姫こと築山殿や於大の方と、血縁という立場から頼られる存在として出演回数も多くなるでしょう。
今回はそんな碓井姫の生涯について、史料上で確認されている部分を中心に考察していきたいと思います。
碓井姫の出自について
碓井姫は名を於久と伝わっています。父親は松平清康で、家康の祖父です。母親は華陽院と伝わっているものの、華陽院が清康と夫婦関係になったか疑問があります。新行紀一氏は『新編 岡崎市史』で夫婦関係となった可能性は低いと指摘し、平野明夫氏もそれに同意しています。そのため母親は広忠(家康の父)と同じ青木貞景の娘という説が有力です。 生年は享禄2年(1529)という説もありますが、「酒井忠次公傳」以外では生年を確認できません。これが正しいとすれば、華陽院が母というのはあり得ません。碓井姫の誕生後まもなく、清康は岡崎を攻め落とし、本拠地を岡崎に移しました。碓井姫の出生は安城であると考えられます。
碓井姫が幼少の頃の天文4年(1535)、父の清康が阿部弥七郎に殺害されました。この時点で兄の広忠は満10歳にもなっていませんでした。そのため、広忠は一時は岡崎を追われ、伊勢での逃亡生活も経験しています。碓井姫も難しい立場だったと推測され、広忠が岡崎城に戻るまで苦労したことが推測されます。
二家に嫁いだ碓井姫
松平広忠にとって、妹の碓井姫は数少ない『外交の切り札』でした。そのため、彼女は長沢松平氏の6代目である松平政忠に嫁いでいます。長沢松平氏の領地は東海道の要地です。南北が山間に囲まれ、東三河から西三河へ向かう玄関口にあります。陸路で人や物が大規模に移動する時に通る場所と言えます。松平氏の縁戚の中でも特に重要な地域だったため、血縁の強化を図ったと考えられます。
碓井姫はこの地で政忠の跡継ぎとなる源七郎康忠を生んでいます。康忠は天文15年(1546)生まれで、永禄5年(1562)に元服しています。その時に家康から「康」の字を編諱されています。ただ、桶狭間の戦いのときに今川義元の本隊に所属していた政忠は、織田信長との戦いで討死しています。
実の姉や妹のいなかった家康にとって、碓井姫は叔母であり、数少ない血縁です。政忠の死後もその重要性は変わりませんでした。そのためか、今川人質時代から同行した家康の腹心である酒井忠次に嫁いでいます。その時期ははっきりしませんが、嫡男・家次の生まれた永禄7年(1564)より前になるので、三河一向一揆(1563)の前ではないかと推測されています。
やがて酒井忠次が吉田城主となったため、碓井姫は”吉田殿”と呼ばれるようになっていきます。
家康と碓井姫の関係
碓井姫の子として、政忠との間に後継者の康忠を、酒井忠次との間には4男1女(早世した子も含む)が生まれています。忠次は、絶対的に信頼のおける存在だったからこそ、家康は血縁関係でより強固な結びつきを求めたのではないでしょうか。その後の忠次は、家康の主要な戦いにすべて参加し、一軍を率いました。吉田城主になった後、『寛政重修諸家譜』によれば「東三河の士は忠次これを指揮」させたと言われています。東三河の国人を率いて各地で活躍し、本能寺の変の際は家康とともに伊賀越えにも同行しています。
天正16年(1588)に忠次は家督を嫡男の家次に譲っています。家次は碓井姫の子ですので、以後の酒井氏は碓井姫の血脈を代々受け継いでいくことになるのです。
天正18年(1590)には、小田原征伐後の家康の関東移封に伴って、酒井氏は下総国・碓井(現在の千葉県佐倉市臼井)に3万石で移封となりました。この時から碓井姫という名前が使われるようになっています。
碓井姫は忠次(慶長元年(1596)没)の死後も生き続け、家次の上野国・高崎移封(現在の群馬県高崎市)にも同行しました。亡くなったのは慶長17年(1612)で、命日は諸説あります。
『寛政重修諸家譜』によれば、三河国・宝蔵寺(現在の愛知県岡崎市)に葬られたとされています。また、酒井氏代々の大督寺(山形県鶴岡市)に改葬されたとも伝わっています。
宝蔵寺は徳川家の始祖である松平親氏が建立した寺院です。家康の父である広忠の墓も存在し、徳川氏との結びつきが強いことがわかります。家康も人質になる前の幼少期(数え6歳以前)に宝蔵寺で文字を習ったと伝わっています。
血縁の少ない家康にとって、碓井姫は10歳以上も年上の頼れる叔母であり、松平譜代家臣との血縁を結んでくれる大きな存在だったと言えます。
碓井姫の子孫
長沢松平氏を継いだ松平康忠は酒井忠次とともに姉川・長篠などの合戦に参加しています。嫡男だった徳川信康の家老も務めたと言われていますが、信康の自刃により蟄居しました。その後家康の家臣として復帰しましたが、長沢松平氏は息子康直の早世もあって関ケ原後に譜代大名にはなれませんでした。ただ、血縁は娘が嫁いだ一族で受け継がれています。酒井忠次嫡男の家次は高崎藩5万石から越後高田藩10万石に移封され、後に家次の子孫は庄内17万石の藩主となっています。血縁からの養子も含め、明治維新後は酒井伯爵家として華族となり、2023年現在も子孫が庄内の実業家として活躍しています。
次男の康俊は伊奈本多氏の養子となり、大坂の陣(1614~1615)の後に近江国・膳所藩3万石の譜代大名となります。その後、一時移封などを経て膳所7万石に戻り、明治維新まで血縁によって受け継がれていきます。
おわりに
大河ドラマでは桶狭間の戦い前から酒井忠次に嫁いでいる碓井姫ですが、実際は桶狭間の戦いで夫が亡くなることで酒井に嫁いでいます。ただ、登場人物をある程度抑えるためにそうした史実上の記録を無視してつくられたと見てよいでしょう。ただし、碓井姫の立場が大河ドラマで予想されているような重要な立ち位置だったのは事実とみてもいいでしょう。最初の子である松平康忠が家康の嫡男の家老だったこと、酒井家次の家系が老中なども輩出した名家であることからも間違いないでしょう。
【主な参考文献】
- 『新編 岡崎市史』(新編岡崎市史編さん委員会、2002年)
- 桑田忠親『酒井忠次公傳』(先求院堂宇修繕後援会、1939年)
- 平野明夫『三河松平一族』(新人物往来社、2002年)
- 堀田正敦『寛政重脩諸家譜』(国立国会図書館デジタルアーカイブ)
- 本間勝喜『庄内藩 シリーズ藩物語』(現代書館、2009年)
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