「源応尼(法名:華陽院)」は家康の祖母にして、幼い時分の養育係だった!
- 2020/05/08
「歴史の陰に女あり」とはよく言われることである。日本では「内助の功」などと言って、豊臣秀吉の正室おねや山之内一豊の妻千代などが裏で家の屋台骨を支えていたという話になることが多い。
今回は徳川家康の祖母の話であるが、これは「内助の功」と言うよりは、まさに「歴史の陰に女あり」を地で行くケースではないかと私は考えている。
家康の祖母・源応尼(げんおうに)はその言動が記載されている史料が極めて少なく、あったとしても断片的なものが多かったため、分析にかなり手間取った。しかし、その史料の断片から見えてきたのは、どうやら出家して平凡な余生を送ったという、ありきたりのものではないようなのだ。
静かに激動の時代を渡った源応尼とはいかなる女性だったのであろうか。
今回は徳川家康の祖母の話であるが、これは「内助の功」と言うよりは、まさに「歴史の陰に女あり」を地で行くケースではないかと私は考えている。
家康の祖母・源応尼(げんおうに)はその言動が記載されている史料が極めて少なく、あったとしても断片的なものが多かったため、分析にかなり手間取った。しかし、その史料の断片から見えてきたのは、どうやら出家して平凡な余生を送ったという、ありきたりのものではないようなのだ。
静かに激動の時代を渡った源応尼とはいかなる女性だったのであろうか。
謎多き出自
源応尼(実名は「於富の方」)は明応元年(1492)に誕生したと言われる。しかし、その出自は明智光秀に匹敵するほど謎に満ちている。『尾張志』によれば、宮野善四郎の娘だとあるし、『川口家々譜』では大河内但馬守満成の娘だという。はたまた、『美濃国諸家系譜』の「大河内家譜」では但馬守満成が大河内左衛門佐元綱の父であり、元網は於富の養父であるとの記載がある。その他にも諸説あり、未だその出自がはっきりしないのだ。
さらには、そもそもは身分の低い家の出身ではないかという説まであり、言わば謎だらけの出自と言ってよい。
水野忠政室から松平清康の継室に?
謎の多い生涯でありながら、その嫁ぎ先の記述は割としっかり残されているのは不思議である。まずは、三河の水野忠政に嫁ぎ、3男1女を儲けたとされる。この1女が徳川家康の生母となる於大の方である。このことから、は家康の祖母であったことがわかる。
ところが、忠政は後に岡崎の松平清康との戦に敗れ、その和睦の条件として於富を差し出すこととなってしまったという。
これによれば、於富は離縁されたことになるのだが、これには矛盾点が指摘されている。清康との再婚が事実であるならば、再婚後に忠重らが生まれたことになり時系列に矛盾が生じるのである。
ともかく、於富はかなりの美貌の持ち主であったようで、年を重ねても嫁ぎ先には困らなかったようだ。清康が暗殺された後も、星野秋国、菅沼定望、川口盛祐といった三河の諸豪族に次々に嫁いだというから驚く。清康を含めれば5人の男性に嫁いだことになるのである。
ここで興味深いのは菅沼氏・川口氏の子孫たちの中には後に家康の家臣となるものが割と多く出ているということである。
そして、於富が養子となったとも言われる大河内家に至っては、松平家の養子となった知恵伊豆こと松平信綱以来、江戸時代を通じて松平姓を名乗ることを許されている。
於富が次々と三河の豪族と再婚したのは、その美貌ゆえ、引く手あまたであったということもあるだろうが、孫の家康がいずれ三河を統治する時のために、閨閥を組織することによって国衆をまとめようとしていたとは考えられないだろうか。
竹千代(家康)の養育
不思議な事だが、於富は嫁いだ先の三河の豪族である夫にいずれも先立たれている。最後の嫁ぎ先である川口盛祐の死後は、駿府の今川義元を頼って駿府に在住したと言われる。義元を頼った経緯は不明である。後の天文16年(1547)、人質として8歳の竹千代(家康)が送られてくると、義元に懇願し養育係となることを許され、8年もの間甥の大河内政房とともに熱心に養育したと伝わる。
天文20年(1551)前後には出家し、源応尼と名乗っている。
実は幼少期の家康は身体が弱かったらしく、それをケアしたいという願いもあったという。
駿府に送られた際、家康は既に岡崎城主であり、父広忠亡き後は大事な跡継ぎであった。同盟者として松平を重要視していた義元にとって家康は単なる人質ではなかったようである。
これは家康にとって幸運であった。家康は岡崎城主の肩書のまま駿府に送られたのであり、人質というよりは優れた武将となるための修養を目的として育てられたと言ってよい。
源応尼の養育のもと、智源院の智短和尚に学問を学び、一説には義元の軍師として名高い大岩臨済寺太原雪斎にも学問の手ほどきを受けたという。これが天下人 徳川家康の基盤を形成したことは疑いない。
死因と「家康影武者説」
源応尼は正史によれば、永禄3年(1560)5月6日大河内政房の家で没したということになっている。ところが、『松平記』には、刑死したとある。『松平記』は、松平家そして徳川家初期の事跡を記した史書である。著者の阿部四郎兵衛定次は松平清康の代から松平家に仕え、家康の代に至るまで家臣として各地を転戦した武将である。いわば、一次史料と言って差し支えない『松平記』の記述は無視できないと思われる。
なぜ、源応尼は刑死しなければならなかったのであろうか。ここで「家康影武者説」が関わってくる可能性が指摘されている。「家康影武者説」を初めて唱えたのは村岡素一郎である。
村岡は明治35年に『史疑徳川家康事蹟』を出版する。ちなみに出版した民友者は歴史家としても名高い徳富蘇峰が経営していた会社であるということは重要である。でたらめな内容の本を蘇峰が出版させるはずがないからである。
もっとも、当時の歴史学は史料の裏付けを重視する現在の実証的史学とは手法が異なっていたということには注意が必要であろう。
村岡氏の説は要約すると3点にまとめられる。
- 今川の人質となっていたのは家康ではなく、家康嫡男の信康(家康と同じく幼名は「竹千代」)
- 桶狭間の戦いの際、今川の上洛軍の先鋒として大高城へ兵糧を運搬したのは、岡崎城にいた家康
- 「本物」の家康は桶狭間の戦い直後に死去し、世良田二郎三郎元信が替え玉となって岡崎城に帰還した
付け加えると、村岡氏は松平清康の暗殺、いわゆる「守山崩れ」の話は本物の家康の暗殺をカムフラージュするための作り話だという。つまり、「守山崩れ」は実際は桶狭間の戦い直後に起こり、暗殺されたのは家康だったと主張しているのである。
三河の国衆の中に家康の君主としての力量に疑問を呈するものがいたのかもしれない。
さて、ここで問題は今川の人質となっていた信康はどうしたのであろうかという点であろう。ほったらかしのまま岡崎に戻ってしまえば、当然信康は殺されたに違いない。しかし、信康はその後も生存が確認できるのである。
ここで興味深い事実にぶつかる。源応尼の甥、大河内政房の妻が駿河にいた信康の乳母をしていたというのだ。
一説に、この妻が竹千代誘拐に加担した件で、源応尼は刑死させられたとも言われる。つまり、信康は大河内政房の妻の手引きで駿府を脱出したというのだ。
非常におもしろい説ではあるが、何せ史料による裏付けがないため、正誤の判定のしようがないのは残念である。新史料の発見を待ちたい。
あとがき
歴史を紐解いていくと、裏で意外な人物が意外なところで暗躍しているケースにぶつかることがままある。もちろんその人物の名は後世、あまり広く知られることはない。しかしその人物がいなければ、歴史は確実に違ったものになっていたという点では、その人物は歴史上のキーマンだったといって差し支えないであろう。源応尼もそのような人物であったのではないか。
あくまで正史通りとすると、家康の養育に力を入れ、三河武士の念願であった松平氏の独立に尽力し、家康が天下人となる下地を作った点が最大の貢献であろうと思われてならない。
後に大河内家が松平姓を賜ったのも、ひょっとすると徳川家の源応尼に対するせめてもの感謝のしるしだったのかもしれない。
【参考文献】
- 大久保彦左衛門 小林賢章『現代語訳 三河物語』ちくま学芸文庫 2018年
- 羽太雄平『双子家康 その真相: 徳川家康没後400年』Kindle版 2015年
- 小和田哲男『徳川家康と戦国時代>竹千代誕生~江戸入城』 学研プラス 2014年
- 村岡素一郎『史疑 徳川家康事蹟 覆刻版+現代語訳』批評社 2000年
- 『松平記―徳川合戦史料大成』日本シェル出版 1976年
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