【岐阜県】萩原諏訪城の歴史 飛騨にあった異色の城…城としての機能より、旅館として存続した期間のほうが長かった!?
- 2022/11/21
飛騨国には数々の有名な山城がありますが、その中で珍しい平城が「萩原諏訪城(はぎわらすわじょう)」です。お城として機能したのはおよそ30年間、その後の80年間は旅館として利用されたという異色さも持ち合わせています。今回はこの個性的な萩原諏訪城の歴史についてお伝えしていきます。
未だ謎の残る築城時期
萩原諏訪城が築城された時期には、二つの説があります。ひとつは飛騨国を支配していた三木氏を滅ぼすべく、豊臣秀吉の命を受けた金森長近が飛騨国に攻め込んだ後、佐藤秀方が天正13年(1585)に秀吉から飛騨国守備を命じられ、翌天正14年(1586)に築城したというものです。秀方は萩原諏訪城の城代となりました。
もう一方は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際に、三木次郎兵衛が飛州萩原取合で拠点としたお城が桜洞城であり、これ以前には萩原諏訪城はなかったはずという説です。
長近はかつて三木氏の拠点であった桜洞城を破却し、代わって萩原諏訪城を築いたため、こちらの説では慶長5年(1600)以降に築城されたことになります。どちらの史料も存在するため、萩原諏訪城の築城時期ははっきりとわかっていません。
どちらにせよ、金森氏の統治が始まるまでは、嘉歴2年(1328)から続く諏訪神社として地元の領主や民から崇拝されていた地で、金森氏はこの境内に萩原諏訪城を建築しました。その際に諏訪神社は遷座しています。
金森長近が旅館として利用した
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、長近は東軍の徳川家康に味方し、佐藤秀方の子である佐藤方政が西軍の石田三成に味方したため、戦後処理で方政は改易となりました。長近の拠点は高山城でしたが、このときに萩原諏訪城を接収して支城としています。萩原諏訪城は飛騨川左岸の丘に築かれた平城でしたから、交通面などで利便性が高かったのでしょう。
なお、平城ではありますが天然要塞として防御力は高く、萩原諏訪城の発掘調査によると、萩原諏訪城は東には山地、西には飛騨川、城郭の西は断崖を形成していたことがわかります。元和元年(1615)に幕府から一国一城令が発せされましたが、その機能性を重視した飛騨高山藩は萩原諏訪城を破却することなく、「金森旅館」として名称を変えて存続を許しています。
このときすでに長近は死去、さらにその養子で飛騨高山藩2代目藩主の金森可重も死去していましたので、この方針は3代目藩主の金森重頼の指示によるものです。重頼は同じく古川の増島城も旅館として利用しています。この旅館は「陣屋」と呼ばれており、藩主の通行の際に使われました。
幕府の天領となった後に破却処分
金森長近を祖とする飛騨高山藩はその後、6代目藩主金森頼旹までのおよそ100年間に渡り飛騨国を統治していましたが、頼旹の代に移封となります。頼旹は幼い頃に家督を継ぎ、若くして将軍徳川綱吉の寵を受けて側用人まで務めましたが、元禄3年(1690)に突然解任され、さらに元禄5年(1692)に出羽国上山藩へ移封となったのです。
理由は諸説ありますが、飛騨高山は資源の宝庫で、金や銀、銅が産出されていたため、幕府が直轄地にしたがっていたためという説が有力です。他にも頼旹が側用人を務めている中で不手際があり、失脚したという説もあります。
天領となった飛騨高山の代官には、伊奈忠崇が関東郡代と兼任で選ばれました。ただし城の維持が厳しいと判断した幕府は、元禄8年(1695)に高山城の破却を決めます。陣屋と呼ばれていた萩原諏訪城も同じ時期に破却されています。
萩原諏訪城破却後の本丸跡地には、諏訪神社が再度移されています。金森氏が統治する以前の環境に戻ったのです。この工事の際にも萩原諏訪城の遺構が消失したと考えられますが、本丸の石垣の一部や北東・南東・南西の櫓台が現存しています。なお、諏訪神社の本殿は明治7年(1770)に再建されたものです。現在も住民の憩いの場として活用され続けています。
萩原諏訪城跡地は、昭和41年(1966)に諏訪城跡の史跡名で岐阜県指定史跡となりました。また、専門家のアドバイスを受け、平成24年(2012)と平成25年(2013)には下呂市教育委員会が2回に渡り、発掘調査を行っています。西側虎口の石垣が崩落しているため、保護対策工事が必要になったためです。
ただし、この発掘調査によって西側虎口の石垣が最も貴重な遺構であることも判明しています。西側の虎口は天然の要害である岩盤を巧みに利用して石垣を二段以上に分け、さらに多聞櫓を上部に構築して高い防御力を誇っていたと想像されます。
おわりに
お城として利用された期間よりも、旅館として活用された期間の方がはるかに長い萩原諏訪城。しかし、旅館とは名ばかりで、実際は防衛拠点として機能していたことでしょう。今も残る石垣は金森氏の築城技術を伝えています。戦国時代がまだまだ続くであろうと考えた金森氏ははたしてどのような思いで萩原諏訪城を建てたのでしょうか。そんなことを考えながらJR高山本線飛騨萩原駅を訪れてみるのも面白いかもしれません。
萩原諏訪城の遺構はそこから徒歩5分の距離にあります。
補足:萩原諏訪城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
天正14年 (1586) | 豊臣秀吉の命令で、諏訪神社が置かれていた地に萩原諏訪城が築城されたと考えられる |
慶長5年 (1600) | 関ヶ原の戦い後、西軍に味方した萩原諏訪城の城代・佐藤方政が改易。萩原諏訪城は金森長近の支城となる |
元和元年 (1615) | 元和の一国一城令により、萩原諏訪城は廃城となるが、金森旅館として存続する |
元禄5年 (1692) | 金森氏が出羽国へ移封となり、幕府直轄の天領となる |
元禄8年 (1695) | 高山城に続き金森旅館は破却処分となる |
宝永6年 (1709) | 萩原諏訪城跡地に諏訪神社が再び移される |
昭和41年 (1966) | 岐阜県指定史跡に指定される |
平成24年 (2012) | 萩原諏訪城跡地の発掘調査が行われる |
【主な参考文献】
- 下呂市教育委員会「萩原諏訪城跡発掘調査報告書 第2章」
- コトバンク
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