決して楽ではなかった若き頃の織田信長。家督継承後の一族との抗争劇を振り返る

 木村拓哉さんが主役の織田信長を演じる映画『レジェンド&バタフライ』が公開された。若き頃の信長は、決して楽をしていたわけではなく、一族との抗争を乗り越えて天下人の道を歩んだ。その経過を見ることにしよう。

 織田信長は父の信秀が没すると、織田家の家督を継承した。相前後して主家の清須(愛知県清須市)守護代家の織田達勝も亡くなり、柱を失った同家の没落が決定的となったが、短い期間で家督は勝秀、彦五郎と継承された。

 やがて、信長に強いライバル心を抱いた清須守護代家の織田氏は、老臣の坂井大膳ら清須衆が中心となり、信長に対抗したのである。

 天文21年(1552)8月、坂井大膳らは信長を討伐すべく挙兵したが、信長は叔父・信光と協力し勝利を収めた。ところが翌年7月、坂井大膳らは、尾張守護の地位にあった斯波義統を暗殺する凶行に及んだ。

 これを知った義統の子・岩竜丸(のちの義銀)は、信長の居城・那古野城(名古屋市中区)に駆け込み、庇護された。信長は形式的な存在とはいえ、守護の流れを汲む斯波氏を戴くことで、権威を保持することになったのだ。

 天文22年(1553)7月、信長配下の柴田勝家が清須城を攻撃すると、坂井大膳らは敗北を喫し、織田三位ら主要な老臣たちの多くを失った。もはや坂井大膳や織田彦五郎の運命は尽きかけようとしていた。

 ところが、天文23年(1554)4月、大膳は信長の叔父・信光を味方に誘い入れることにより、形勢の逆転を狙ったのである。叔父・信光の裏切りは、後述するとおり信長の作戦だった。

 大膳が信光へ示した条件は、織田彦五郎とともに清須守護代として迎え、尾張下半国の二郡を与えるというものだ。しかし、信光はあらかじめ信長にこの一件を報告し、大膳の味方になるふりをして清須城に向った。信光と信長は事前に示し合わせていたのだ。

 信光は清須城の南構を訪れると、坂井大膳も面会しようとした。しかし、そこには信光の軍勢が待ち構えていたので、大膳はただちに清須城を出奔し、今川義元のもとへ逃亡したのである。これにより織田彦五郎は切腹を命じられ、清須守護代家は滅亡した。

 もちろん、話はまだ終わっていない。叔父の信光は信秀の弟とはいえ、信長の強力なライバルの一人だった。同じ一族とはいえ、決して油断ならなかったのは、清須守護代家とまったく同じである。

 清須守護代家の滅亡後、信長が代わりに清須城に入城すると、信長のかつての居城だった那古野城には信光が入城した。しかし、天文23年(1554)11月、突如として信光は亡くなったのである。

 『甫庵太閤記』によると、信光の妻と信光の近習・坂井孫八郎が密通していたという。関係がばれることを恐れた二人が共謀して、信光を殺したというのだ。しかし、この説は信憑性が低い『甫庵太閤記』に書かれたことなので、史実とは言い難いだろう。

 『信長公記』には、「不慮のいきさつ(出来事)が起こった」と実に意味深長な記載がある。さらにこの続きには坂井大膳と信光は互いに誓紙を交わしたが、信光がこれを破ったので罰を受けたとあり、これは信長にとって「果報(幸福な様子)」であると書かれている。信光の死は、偶然だったのだろうか。

 『信長公記』が信光の死因を記さないのは極めて不審であり、大きな謎といわざるを得ない。その死には何らかの事件性があり、信長によって粛清された可能性も否定できないだろう。

 『信長公記』は信長の公式な伝記なので、信長に不利なことを書かないように、あえて具体的な記述を避けたと推測される。ただし、いずれにしても信光の死は、信長にとって「果報」だったのは事実である。

 信長と一族との確執は、信光の件だけに止まらなかった。信長には腹違いの兄・信広がいたが、側室の子であったため、家督を継承できなかった。この信広も、信長に反旗を翻したのだ。その経過について、詳しく確認することにしよう。

 かつて信広は、今川氏や松平氏が勢力を持つ三河国の安祥城(愛知県安城市)を守備していた。ところが、天文18年(1549)3月、信広は今川氏の軍勢に敗れて安祥城を奪われ、捕虜になる大失態を犯したのだ。

 しかし、織田方には人質として松平竹千代(のちの徳川家康)を預かっていたので、今川氏に信広との交換を持ち掛けた。その結果、信広と竹千代の交換が実現し、無事に帰国を果たしたのである。

 のちに信長が織田家の家督を継ぐと、信広は配下として仕えたが、その心中には少なからず不満があった可能性がある。その理由を考えてみよう。

 弘治2年(1556)4月、信長の義父・斎藤道三が子の義龍に討たれた。これをきっかけにして、信広は義龍と誼を通じ、清須城の乗っ取りを計画した。信広は、信長の存在を快く思っていなかったのだ。

 ところが、信長は信広の謀反を知ると、すぐに清須城の防禦を整えた。結局、信広の計画は失敗し、援軍に馳せ参じた美濃衆も引き上げた(以上『信長公記』)。信広はハシゴを外されたようになり、たちまち窮地に陥ったのである。

 もはや信広は討たれるかに見えたが、意外なことに、信長は信広を処罰しなかった。信長は信広が反抗しないと考え、「使える人材」と判断したのだろう。その信長の判断は、決して間違いではなかった。

 その後、信広は天正2年(1574)9月の伊勢長島の戦いで討ち死にするまで、信長に仕え続けた。少なくとも信長は、自分自身に従順であれば寛容さを示し、その罪を許したのである。

 このように、父から家督を継いだ信長は、一族との抗争に勝利して、尾張国内の統一に邁進した。実は、苦労していたのが本当の信長の姿なのだ。一連の大きな危機を乗り越えて、信長は天下人への道のりを歩んだのである。

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  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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