「今井宗久」信長に重用されたビジネスマン茶人!

今井宗久のイラスト
今井宗久のイラスト
 長く厳しい戦乱の世が続いた戦国時代、殺伐とした時世の一方で日本文化の精髄ともいえるものが完成へと向かっていました。それは「茶の湯」、現代でいうところの茶道の原型となるものです。

 茶の湯はただ抹茶を喫するという安らぎだけではなく、茶器などの名物や茶室の設え、料理に菓子、建築や服飾にいたるまでの幅広い要素を含んだ芸術でもあります。

 元来は薬として仏教寺院にもたらされた茶でしたが、やがて戦国武将にも広がり熱烈な支持を受けるようになります。そのため、茶の湯の名人ともなると経済力だけではなく社会的なステータスも伴い、公家や武家とのパイプから政治的な影響力すら有するようになっていきました。

 茶道でもっとも有名といえるのは「千利休」ですが、同時代に「天下三宗匠」と並び称された優れた茶人が存在していました。利休に加え「津田宗及」、そして堺の顔役ともいえる「今井宗久(いまいそうきゅう)」です。

 今回は信長や秀吉にも重用され、武将たちと多くの接点をもった今井宗久の生涯について概観してみることにしましょう!

今井宗久とは

生まれ

 今井宗久は永正17年(1520)、「今井出羽守宗慶」の三男・氏高の子として生まれました。

 出身は今井氏の本貫地であるという近江国(現在の滋賀県あたり)高島郡今井市とも、大和国(現在の奈良県あたり)高市郡今井荘ともされています。「納屋宗久」ともいい、初名は「久秀」とし後に「兼員」を名乗りました。通称は「彦八郎」で後に「彦右衛門」としています。

前半生

 青年期に堺へと出て、はじめは「納屋宗次」の居宅に寄寓していましたが、やがて独立して納屋業を営むようになります。

 「納屋業」とは現代でいう倉庫業のことですが、戦国時代当時では海沿いや港などに設けた倉庫を賃貸したり、日本各地あるいは海外からの物産品を集積したりする有力業種でした。物流の要ともいえる納屋業は莫大な富を生み、港湾都市・堺の経済力を支えるビジネスでもあったのです。

 商売で頭角を現した宗久は、やがてわび茶中興の祖ともいわれる「武野紹鷗」に師事して茶の道を学び、その娘と結婚して紹鷗の婿となります。

 鋭敏な才覚の持ち主だったと評価される宗久は、紹鷗の後援もあって納屋業でも成功をおさめます。「宗久」は27歳頃に名乗った号で、高名な商人で茶人の「天王寺屋津田宗達」の茶会に招かれるなど社会的なステータスも手にしていました。

 天文23年(1554)には臨済宗・大徳寺の塔頭寺院である大僊院に、170貫(2550万円:1貫≒15万円と仮定)という高額の寄進を行うほどの力をつけています。

 弘治元年(1555)、師であり岳父でもある武野紹鷗が死去すると、その遺品である「松島の茶壷」「紹鷗茄子」「玉潤筆波の絵」などの名物茶器を受け継ぎ、紹鷗遺児の宗瓦(新五郎)の後見人となりました。

 事実上の紹鷗の後継者ともいえるポジションですが、紹鷗秘蔵の遺品をめぐってはのちに宗瓦と争いになり、これに勝利しています。

 宗久は武具に使用するための皮革製品販売も手掛けていたようで、いわば軍需産業に関わっていました。このことから「三好実休」や「松永久秀」といった有力武将とのパイプも構築し、政商としての地位をも確立していきました。

後半生

 永禄11年(1568)、急速に台頭してきた「織田信長」が室町15代将軍「足利義昭」奉じて上洛。松永久秀が信長に降伏すると、宗久も「紹鷗茄子」「松島の茶壷」といった武野紹鷗秘蔵の名物を献上して織田への接近を図ります。

 信長が名物茶器に並々ならぬ執着をみせ、茶の湯を政治や家臣団統率、または褒賞のシステムなどに取り入れたことはあまりにも有名です。

 宗久はそんな信長の嗜好を鋭敏に読み取ったといえるでしょう。また、将軍・足利義昭からは「大蔵卿法印」の官職名と最高僧位を授かっています。

 同年から翌年にかけて、信長は莫大な富が集積する交易の要衝・堺の掌握を目論み、堺町衆に対して2万貫(30億円:1貫≒15万円と仮定)という途方もない「矢銭」の賦課を命じました。

 矢銭とは軍事費のことで、この無体な供出命令に当初堺町衆は徹底拒否の姿勢を示します。しかし宗久は町衆を説得、両者の間を仲介して和平論をすすめ、戦闘を回避することに成功しました。

 このことから信長に重用されるようになった宗久は摂津・五箇荘などの蔵入地代官職に任命され、淀川沿いの舟運に関する交通税免除などの特権を与えられたうえで、信長の「茶頭」として召し抱えられました。

 その一方で宗久は我孫子に鉄砲製造拠点を創設、銃火器に必要な火薬類も取り扱うなど、ますます富を蓄えていきます。

 信長による宗久の重用は、堺という都市そのものの懐柔と掌握という目的と不可分であり、石山本願寺勢力と堺町衆との切り離しを画策した天正初年からは、むしろもう一人の天下三宗匠「津田宗及」へとその比重を置くようになりました。

 そのため、宗久のピークは信長在世中のこととされ、秀吉の代になると茶頭ではあったもののその席次は利休・宗及に次ぐ位置にまで低下しています。それは天正15年(1587)の「北大茶湯」において顕著であり、「小西行長」の父である「小西隆佐」や千利休が秀吉に重用されたことが知られています。

 宗久は文禄2年(1593)に死去。現・堺市堺区の臨江寺にその墓所があります。

茶の湯と政治、武将との密接なつながり

 今井宗久の事跡を振り返ってみると、実にビジネスの才覚を遺憾なく発揮して戦国の荒波を乗り切った人物という印象を受けます。茶の湯の腕前にしても師の娘婿におさまるほどですので、それにふさわしい技量と真摯さをもっていたのでしょう。

 信長という強者を見抜き、紹鷗秘蔵の名物茶器という宝を手放してまで接近したこと、また巨額の金銭負担を承知させてまで堺への攻撃を回避したこと等、絶妙なリスクマネジメントの感覚を武器にしたともいえます。

 皮革製品にはじまり、鉄砲と火薬類といった軍需産業に着目して事業としたことも、商売人としての冷徹ともいえる状況分析の鋭敏さを感じさせます。

 武将とのつながりでいえば「三好実休」は宗久の師・紹鷗の弟子であり、茶の湯に深い造詣をもった人物として知られていました。そのような先代からの人脈も最大限活用しつつ、時流全体を見通す観察眼と政局への情報網を培っていったものと思われます。

 いずれにせよ、宗久は茶の湯を通した政治・軍事との本格的な関係性を構築した先駆者の一人ともいえ、民間人が戦火を退けるためのひとつの可能性を提示した人物と評価できるかもしれません。

おわりに

 宗久の時代には師・紹鷗が中興した「わび茶」がもてはやされ、武将たちもこぞって狭い草庵茶室を建てたことが知られています。

 茶の湯が彼らをそこまで夢中にさせた理由については、現代人の目からは理解が難しい点もありますが、ひとつには「政談」にうってつけの環境が歓迎されたという考え方もあります。

 当時の屋敷等の構造や生活習慣では、完全な「個室」というものは存在しにくく、茶の湯も元々は書院などの広間で行うものでした。その点、草庵茶室はいわば安全な密室たりうるため、たとえば武将たちが密談をかわすのにはうってつけの設備だったといえるでしょう。

 そういった時流のニーズをうまくつかんだのが、津田宗久のような商人などに代表される民間富豪の茶人だったといえるかもしれません。もちろん、お茶のもつリラックス効果や「市中の山居」ともいわれる、茶道の空間そのものに安らぎを得たであろうことは言うまでもありませんね。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 『日本大百科全書』(ジャパンナレッジ版) 小学館
  • 物流不動産ニュース 戦国の倉庫屋・田中与四郎

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。