柳生一族の隆盛 一介の剣術家から大名へ

『伊賀水月柳生三厳漫遊記』より(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
『伊賀水月柳生三厳漫遊記』より(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 柳生一族といえば、柳生十兵衛もしくはその父・柳生但馬守宗矩(たじまのかみむねのり)。時代劇ファンにはおなじみの剣豪だ。隻眼の十兵衛が豪快な殺陣を披露すれば、重厚なオーラをまとった但馬守が幕府の重臣ににらみを利かせる。私もそんな姿にワクワクした一人である。

 そんな柳生家は、剣術家から大名に成りあがったただ1つの家。今回は、柳生家の中心的な人物に焦点をあてながら、柳生家が大名にまで出世できた理由、その隆盛について調べてみた。

隠れ里柳生

 柳生氏の祖先は、かの菅原道真だという。柳生氏ももともとは菅原姓だったそうだが、南北朝時代に後醍醐天皇から大和国柳生庄(楊生庄とも称す)を賜ったことから柳生姓を名乗るようになったらしい。

 柳生庄は、現在の奈良市東部にあった山に囲まれた土地であった。山城国(現京都府南部)に接する位置にあり、室町・戦国時代の頃までの度重なる戦乱に巻き込まれながら、離散集合を繰り返していたと考えられる。

 柳生氏が生き残るための手段として選ばれたのが、剣術であったようだ。剣の技量を高めることで、彼らは自らの存在意義を示し、かつ自分たちを守る盾としていった。

剣豪・柳生宗厳

 柳生新陰流の流祖である柳生宗厳:石舟斎(むねよし:せきしゅうさい)が生まれたのは、戦国時代初期の大永7年(1527)のことだ。そのころの柳生家は、畠山氏や筒井順慶らに従属することで一族の存続を図らざるを得ない小豪族だった。

 家督を継いだ宗厳も大和国へ侵攻してきた松永久秀に接近し、側近として重用されるようになる。すでに剣豪として名を馳せていた宗厳は、合戦においても比類なき働きぶりを示し、一時は松永氏の本拠であった多聞城(たもんじょう)の城代を任されるほどだった。

 宗厳の能力は、軍事面だけでなく外交面でも発揮され、織田信長上洛の際には使者を務め、信長やほかの大名にも認められる存在となっていった。

柳生新陰流

 永禄6年(1563)、宗厳は上泉信綱(かみいずみのぶつな)と出会う。上泉信綱は、新陰流の祖であり剣聖とも讃えられた剣豪であった。たまたま柳生の里を訪れた信綱に宗厳は立ち合いを申し出る。しかし相手を務めたのは、信綱の弟子である疋田景兼(ひきたかげとも)であった。

 剣の技量に自信のあった宗厳には不服もあったであろうが、それを抑えて立ち会う。そして、宗厳は完膚なきまでに叩きのめされた。諦めきれずに信綱との立ち合いを願った宗厳であったが、あっけなく敗れる。宗厳はその場で弟子入りを願い、いちから自らを鍛え直した。

 それから2年、宗厳は師匠・信綱から新陰流免許皆伝を与えられた。松永久秀の重臣として活躍をしながら剣術の鍛錬を続けた宗厳は、数年後には新陰流を引き継ぎつつ、さらに進化させた柳生新陰流を起こすことになる。

柳生家の危機

 剣術家としては順調に過ごしていた宗厳であったが、領主としては波乱の日々が続く。天正5年(1577)、久秀が信長と対立し、滅亡する。宗厳は、久秀に代わり大和を治めた筒井順慶には従わず柳生の里へ隠棲する。
ひたすら剣を極めようと修練する宗厳だったが、信長に代わり天下人となった豊臣秀吉による太閤検地で、隠田がバレて領地を没収されてしまった。柳生家は離散し、没落の一途をたどった。名を石舟斎と変えた宗厳に残っているのは柳生新陰流とそれを継承していく子供たちだけであった。

家康との出会い

 不遇の時を過ごしていた柳生家に転機が訪れたのは、文禄3年(1594)のことだ。柳生新陰流の祖・宗厳の名声を耳にした徳川家康が彼を京都の宿舎に招いた。

 家康は戦国武将の中でも特に武芸に優れた人物で、天下を取った後も剣術・馬術などの鍛錬を怠らなかったと言われている。そんな家康だからこそ、石舟斎に興味を持ったのかもしれない。

 息子宗矩を伴って来訪した石舟斎は、家康に「無刀取り」を披露する。「無刀取り」とは、上泉信綱から伝授された新陰流の秘技であり、それを一層磨き上げた石舟斎の見事な「無刀取り」を目の当たりにした家康は、石舟斎を兵法指南役に迎えたいと申し出る。しかし石舟斎は老齢を理由に辞去し、代わりに宗矩を推挙した。

兵法家・柳生宗矩

 なぜ五男の宗矩が家康に仕官することになったのか。それは柳生家不遇の期間が招いた不思議な縁であった。長男は戦傷により剣術の道が途絶え、柳生家復活の希望が薄かったために次男・三男は僧侶となり、四男はほかに仕官していた。

 ただ一人残っていた宗矩、これは私の推測だがおそらく宗矩こそが石舟斎の剣才を最も継いでいたのではないか。この先柳生家が再興できるとすれば、宗矩の剣術、そして彼の政治家としての才能(石舟斎はある程度見抜いていたと私は考えている)にかけるしかない。

 家康に呼ばれたとき、石舟斎はこのチャンスにかけた。剣術好きの家康に宗矩を託す、そして宗矩に柳生新陰流・柳生家の未来を任せたのだ。その期待に宗矩は見事に応えていく。

宗矩の出世

 宗矩が家康に仕えた4年後の慶長5年(1600)、天下分け目の関ケ原の合戦が起こる。宗矩は家康の命により、大和の豪族らと共に石田三成の後方かく乱を指揮している。その功により旧領2000石を取り戻した。翌年には、徳川秀忠の兵法指南役となり1000石の加増を受け、3000石の大名・旗本となった。

柳生宗矩の木像(イラスト)
柳生宗矩の木像(イラスト)

万石取りの大名に

 秀忠からの信頼厚き宗矩は、元和7年(1621)には三代将軍家光の兵法指南役となる。その8年後には但馬守を任じられる。そのまた3年後には諸大名の監視をする総目付として3000石、寛永13年(1636)には4000石の加増を受け、とうとう1万石の大名・柳生藩となった。その後も加増が続き、寛永20年(1643)には1万2500石を領した。

 同時期に将軍家兵法指南役として小野派一刀流の小野忠明という剣豪がいるが、彼は600石止まりである。このことからも柳生家の出世が異例のものだということがよくわかるだろう。一介の剣術家が万石取りの大名にまで成ったのは、戦国・江戸時代を通じて柳生宗矩ただ1人なのだ。

宗矩が出世した理由

 宗矩はなぜこれほどまでに出世することができたのか。いくら徳川三代からの信任が厚かったとしても、それだけで大名に上り詰めることができるのだろうか。そこで彼と小野忠明との違いは何だろうかと考えてみた。

 宗矩の人間力?政治力?それもあっただろうが、私がふと思いついたのは、彼の領地である柳生の里のことだ。大和の山間にある庄、その周囲には伊賀や甲賀といった忍びの里がある。柳生十兵衛が活躍した時代劇はもちろんフィクションだが、実際の柳生家も諜報能力に長けていたのではないだろうか。

 小豪族が生き残るには、どの権力者と手を組むかを的確に判断しなくてはならない。そのための情報収集、そして相手方との交渉能力が必要だ。

 家康はほかの戦国大名に比べても情報の重要性をよく理解していたという。また他の有力大名がいつ反乱を起こすかわからない不安定な状態であった幕府創成期には、諸国の情報が非常に重要となる。

 各藩に送り込まれた柳生新陰流の門弟たちがさまざまな情報を、宗矩を通じて幕府に報告していたとしたら…。まさに裏の任務ともいえる諜報活動を柳生家が担っていたこと、これが宗矩をして大名に押し上げた理由ではないだろうか。「影の軍団」は本当にいたのかもしれない…?

宗矩の剣術やいかに?

 宗矩は本当に剣豪だったのか。彼が剣を持って人を斬ったことは、実はたった一度しかない。それは慶長20年(1615)の大阪夏の陣の際である。秀忠の身辺警護をしていた宗矩は、大坂方からの襲撃に対し、瞬く間に7人の敵兵を斬り伏せたという。

 むやみに力を見せつけることはなかったが、いざという時は必殺の剣が抜かれる。この件で秀忠の宗矩に対する信頼度は一層高まったことだろう。

おなじみ隻眼(?)の剣豪・柳生三厳

 柳生三厳(みつよし)こと十兵衛は、宗矩の嫡子である。隻眼の剣豪として有名だが、実際の十兵衛が隻眼であったかどうかは定かではない。

 13歳で家光の小姓となり、父宗矩が家光の兵法指南役となってからは、家光の剣術稽古相手となっていただろうことは十分に想像できる。しかし、寛永3年(1626)十兵衛20歳のとき、家光の勘気をこうむり蟄居を命じられた。

 再出仕はなんと11年後のことだ。謹慎中の十兵衛が何をしていたのか。それははっきりわかっていない。実は幕府の隠密として諸国をめぐっていたとか、影の軍団として活躍していたとか、なんとか。彼の行動が明確になっていないおかげで諸説・風説が乱れ、今に至っているのだろうな。

柳生三厳肖像(『先哲像傳 第2冊』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
柳生三厳肖像(『先哲像傳 第2冊』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

父・宗矩の死

 正保3年(1646)初め、宗矩が病に倒れる。自邸で休む宗矩のもとに、家光が見舞いに訪れた。望みがあれば、なんでも申し出るようにとの言葉に、家光の宗矩への信頼の高さがうかがえる。しかし、宗矩の病は開腹せず、同年3月26日死去。享年76であった。

 宗矩の遺言により、遺領は十兵衛・宗冬(三男)・烈堂義仙(四男)に分けられた。8300石を相続し、家督を継いだ十兵衛は間もなく柳生の里へ引きこもったとされている。

 十兵衛が亡くなったのは、慶安3年(1650)のことだ。鷹狩りに出かけた先で急死したと伝わっているが、死因は明らかになっていない。

十兵衛以降の柳生家

 十兵衛亡き後、柳生家を継いだのは三男の宗冬である。(次男は病で早世している)宗矩の死後領地が分割されたため大名から旗本に戻っていたが、宗冬の代に再び大名となっている。柳生藩は明治維新まで存続し、代々兵法指南役を務めた。

あとがき

 今回は虚々実々混ぜ合わさったような記事となってしまったかもしれない。数十年前、ワクワクしながら見ていたドラマや映画のイメージがどうしても払しょくしきれず、いつもよりも余計に妄想が入ってしまったようだ。

 でも一介の剣術家が一代でのし上がったという史実の裏を探りたくなる好奇心は止められない。宗矩が出世した本当の理由はわからない。でもこんな風に試行錯誤したり、想像したりできるのが歴史を知る面白さの一つではないだろうか。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
fujihana38 さん
日本史全般に興味がありますが、40数年前に新選組を知ってからは、特に幕末好きです。毎年の大河ドラマを楽しみに、さまざまな本を読みつつ、日本史の知識をアップデートしています。

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