「光る君へ」紫式部の婚期はなぜ遅れたのか?平安時代の結婚事情
- 2024/07/01
大河ドラマ「光る君へ」第26回は「いけにえの姫」。
長徳2年(996)、越前守となった父・藤原為時に同行して、都から越前国(現在の福井県)に下向した紫式部。しかし彼女は、長徳3年(997)か長徳4年(998)には、都に帰ったと推測されています。父を越前に残しての単身での帰京でした。越前にて式部が詠んだ歌は、都を恋しがるものが散見されますので、彼女が1年か2年で帰京したとしてもそれほど不思議ではありません。
しかし、式部の帰京は望郷の念のみならず、人生の大きな選択をしたからではと思われます。その選択とは結婚です。では式部のお相手は誰かと言えば、藤原宣孝。「光る君へ」においては、俳優の佐々木蔵之介さんが宣孝を演じています。結婚とは言っても、式部は宣孝の嫡妻(正妻)ではありませんでした。宣孝には既に妻がいて、しかもその妻たちの間には、何人もの子もいたのです。
式部は宣孝と結婚した頃、20代中盤くらいと考えられています。一方の宣孝は40代中頃。年の差もかなりあります。式部の結婚(初婚)は当時としては遅いものでした。なぜ、式部の結婚は遅れてしまったのでしょうか。それは、式部の性格や好みの問題などではありませんでした。長期にわたり父・為時が無官(官職がない)だったからです。
当時は、男性が婿として妻の実家に入る「婿取婚」(むことりこん)でした。よって、父が無官では、婿を取る準備・用意はできようはずはありません。またそのような状態では、好んで為時の婿になるような男性も現れません。そんな事情があって、式部の婚期が遅れたと考えられるのです。
宣孝と式部の結婚がいつ決まったのかは定かではありませんが、「光る君へ」で時代考証を担当する倉本一宏(国際日本文化研究センター教授)は「為時の着任が一段落したら京に帰って宣孝と結婚するのが規定の行動だった気がしてならない」(同氏『紫式部と藤原道長』講談社、2023年)と想像されています。
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