明治天皇崩御 日清日露・大逆事件などの心労も重なり…

芝の増上寺で行われた追悼式(『日本歴史写真帖 補再版』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
芝の増上寺で行われた追悼式(『日本歴史写真帖 補再版』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 明治45年(1912)7月29日22時43分、第122代天皇・明治天皇は崩御されました。数え61歳満59歳でした。明治維新を経て日本国の君主となり、日清日露の両戦争を戦い、日本の近代化と共に歩まれたその生涯は歴代天皇の中でも波乱に満ちたものです。

践祚規定のため崩御の日付をずらす

 宮内省は新帝の践祚(せんそ)を崩御と同日中に行うという登極令の規定に合わせるため、崩御の時刻を2時間ずらし、7月30日0時43分を公式の崩御時刻とします。践祚とは先帝が崩御あるいは譲位されたときに新しい帝が天子の位を引き継がれることで、帝位に空白を作らぬために同日中に行なわれねばなりません。

 明治天皇の死因は持病の糖尿病の悪化による尿毒症でした。この年、7月に入ったころから天皇の健康はすぐれず、最後の行幸となった7月11日の東京帝国大学卒業式では、立っていることも出来ずに椅子に座っての臨席となります。15日の枢密院会議でも体調不良から居眠りをしておられたとか。

 その後も体調の悪化をおして政務に臨まれますが、19日に遂に昏倒、それ以後は病床についておられました。それから10日後に崩御、30日中には皇太子嘉仁(よしひと)親王が践祚されます。この日から明治45年は大正元年となりました。

度重なる心労

 東京帝大の教授で宮内省御用掛でもあったドイツ人医師・ヘルツは、明治天皇について、「日本人としては大柄で恰幅も良かった」と書いています。しかし国を挙げて戦った日清、日露の両戦争は天皇に大きな心労を与え、そのころから急に年を取られたように見え、体力の衰えも目立ってきました。このことが死期を早めたとも言われます。

明治19年制式の軍服姿の明治天皇の肖像(『明治天皇御一代』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
明治19年制式の軍服姿の明治天皇の肖像(『明治天皇御一代』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 敏感な神経も持っておられたようで、明治38年(1905)に起きた日露戦争の講和条約をめぐる日比谷焼き打ち事件では、皇居の中まで群衆の叫び声が地鳴りのように響き渡りました。それを聞いた天皇は居間から縁側まで出て来て、騒ぎの様子を窺っておられます。

 また、無政府主義者による天皇暗殺計画、いわゆる大逆事件も天皇にさらなる心労を与えます。明治天皇の写真嫌いは有名で正面からの写真は少ないのですが、晩年の横顔の写真からは非常にやつれた様子が覗えます。

明治45年(1912)の演習統監時の明治天皇(『明治天皇御一代』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
明治45年(1912)の演習統監時の明治天皇(『明治天皇御一代』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

崩御、葬儀

 明治45年(1912)7月20日、

「天皇陛下14日より御病気の処、昨今御重態」

との発表があり、

「19日午後よりご精神少しく恍惚の御状態にて御脳症あらせられ、同日夕刻より突然御発熱、御体温40度5分に昇騰、御脈10御呼吸38回」

と続けて発表されます。後に神として祀られた天皇にしては、“その容態が意外に詳しく発表されているな” と感じられます。

 この日、東京は隅田川の川開きに当たっていましたが警視庁はこれを中止させます。万朝報は

「暗雲深く大内山を鎖して慟哭の声野に満てり。あわれ悲しき明治四十五年七月三十日よ、聖天子遂に神去り給いぬ」

と報じ、明治天皇が崩御されました。天皇の遺体は皇居内に仮設された殯宮(もがりのみや)に安置され、崩御後およそ45日後の9月13日に大喪儀が現神宮外苑の青山練兵場で行われました。世界20ヵ国から弔問の使節が訪れます。

 葬儀の模様を当時の新聞が報じています。

「千代田の森に暮色迫り風あり瀟殺として吹く。宮城前より馬場先門に至る御道筋には列兵森々として整列す。・・・広場には各学校代表者五万余人あり。一発の砲声はまさに午後八時霊柩後発引の号砲なり」

と美文を連ねます。

 先頭は近衛軍楽隊が務めますが、天皇の棺を担いだのは京都から駆け付けた “八瀬童子” の人々でした。“八瀬童子” とは、京の都の鬼門を守る比叡山延暦寺の麓八瀬地区に住む人々です。

 南北朝のころ、足利尊氏に追い詰められた後醍醐天皇の御輿を護り、比叡山延暦寺に送り届けました。これ以来、皇室とのご縁が結ばれ、室町時代からは天皇の臨時の駕輿丁も務めるなど皇室への奉仕を行います。

 翌日、天皇の遺体は東海道本線で京都に運ばれ、伏見桃山御陵に葬られました。

伏見桃山御葬列の様子(『日本歴史写真帖 補再版』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
伏見桃山御葬列の様子(『日本歴史写真帖 補再版』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 なお、“八瀬童子”は大正天皇の葬送の時にもその棺を担いでいます。

乃木夫妻の殉死

 明治天皇の大喪儀の当日である9月3日、後を追うように乃木希典(のぎ まれすけ)とその妻・静子が殉死します。乃木の遺書には「西南戦争で軍旗を奪われたときに死のうと思ったが、それが今まで生き延びた」と書かれていました。この報せを聞いて乃木を慕っていた裕仁親王のちの昭和天皇は涙を浮かべて悼んだと言います。

 忠を尽くして殉死した乃木を軍神として称賛する声が起こり、夏目漱石や森鴎外らの作品に影響を与えましたが、志賀直哉は「馬鹿だ」と切って捨て、芥川龍之介も批判的態度を取ります。

日清・日露戦争で活躍した陸軍軍人・乃木希典(『乃木希典』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
日清・日露戦争で活躍した陸軍軍人・乃木希典(『乃木希典』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

続く明治天皇への思慕と崇拝

 大正3年(1914)、東京市民の間から京都の天皇陵だけではなく、東京にも明治天皇をお祭りする墓所が欲しいとの声が上がり、市民運動に発展します。

 この動きを受けて明治天皇を祭神とする社として建立されたのが明治神宮です。夫・天皇の後を追うように大正4年に薨去された昭憲皇太后を合祀するこの神宮は、大正9年(1920)に代々木に完成。以来、全国から多くの参拝者を集めています。

 本殿を取り巻く緑深い森は自然林ではなく、荒れ地だった土地に人の力で木が植えられた森です。日本全国や海外からも植樹する木の奉納の申し出が相次ぎ、青年団を中心とした延べ11万人に及ぶ青年たちの勤労奉仕でこの森は誕生しました。

明治神宮の全景(『明治神宮写真集』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
明治神宮の全景(『明治神宮写真集』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

おわりに

 我が国の天皇の在り方はおおむね世の中の平和や安定の象徴でした。ところが明治・大正・昭和天皇は軍服姿の写真が多く残されています。明治以降の富国強兵が国是であった時代と言う事でしょうか。


【主な参考文献】
  • 御厨貴/監修『ビジュアル明治クロニクル』(世界文化社/2012年)
  • 本田豊『絵が語る知らなかった幕末明治のくらし事典』(遊子館/2012年)
  • 筒井清忠『明治史講義人物篇』(筑摩書房/2018年)

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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