東京遷都 明治天皇の行幸、初めて京都を離れられた天皇

明治天皇の東京行幸(東京御着輦 小堀鞆音筆、出典:wikipedia)
明治天皇の東京行幸(東京御着輦 小堀鞆音筆、出典:wikipedia)
 平安京に都が定められてから千年もの間、日本の都であった京都。1869年に、その京都から東京へ日本の首都が移ります。これはもう一大事でした。

後水尾天皇以来2世紀ぶりの行幸は遠く離れた東京へ

 元号が「慶応」から「明治」に改められた新暦の10月、前月に即位なさったばかりの明治天皇はこの間まで江戸だった東京へ向けて京都を出立されます。

 天皇が御所から出ての外出を「行幸(ぎょうこう)」と言いますが、天皇の行幸は文久3年(1863)に孝明天皇が攘夷を願って京都郊外の石清水八幡宮と、上賀茂・下賀茂両神社へ行幸されて以来、6年ぶりの事でした。

 さらにその前というと、江戸時代初期に後水尾天皇が二条城へ行幸し、上洛した徳川秀忠と家光の拝謁を受けたときです。行幸と言っても御所と二条城ですから、そんなに離れていませんね。

 江戸時代、幕府の厳しい監視下に置かれた天皇は、外出もままならずほとんど御所に籠り切り。後水尾天皇以来、ほぼ2世紀が経った明治天皇の行幸は、遠く離れた東京への旅でした。

首都東京の合意は出来ていなかった?

 鳳輦での長い東海道の旅を終え、10月13日に東京に到着された明治天皇。江戸城に入城して「東京城」と改称、ここを行幸中の皇居と定めます。ところがそのまま留まられるのかと思いきや、年内には京都へ戻ってしまわれます。

 翌明治2年(1869)、天皇は再び東京を目指して3月に出立、途中伊勢神宮に立ち寄り、月の内に東京へ到着して東京城を皇城に定められます。新政府の要である太政官を東京に移し、京都には留守官を置き、これで事実上東京遷都が完了しました。

 ただ、日本に首都を定める法律は無く、明治新政府内でも各勢力の思惑が絡み合い、どの地を首都とするかの合意は出来ていなかったようです。この辺り、「奠都だ遷都だ」との議論もありますが、ともかく天皇が東京に移られ、政府の諸機関も東京に集中、なし崩し的に東京が日本の事実上の首都になりました。

 置いて行かれてしまった京都の人々を宥めようとしたのでしょうか? 天皇は『東西両京』の詔を発し、大納言・岩倉具視も「東京行幸は遷都につながらない」と明言します。しかし、千年の間日本の都であった京都の人々の反発は激しいものでした。

京都の御機嫌を取らねば

 京都府民はもちろん、天皇が東京へ移られるのには反対でした。 天皇が移られたら、それにつれて朝廷はもちろん、天皇家に仕える公家たちも東京へ行ってしまいます。都の役人や御所の御用を伺っていた商人たちもごっそり東京へ行ってしまい、京都の人口は激減、経済もぼろぼろになりました。

「今まで都として栄えていた街が一気に衰退するのはいかん!」

 初代京都府知事の長谷信篤(ながたにのぶあつ)は立て直しを図ります。長谷は明治政府に掛け合い、租税免除の特典や産業基立金・勧業基立金の獲得を図ると共に、官民を挙げて京都の再生に乗り出します。

 これらの資金は西陣織の織元への貸付金や各種輸入機械の支払い、牛・豚・羊など家畜の購入費に当てられ産業育成を図ります。現在も活躍している琵琶湖疎水も、この資金で建設されました。

 京都の優遇ぶりに、他の府県は不満一杯でしたが、都の地位を取り上げた明治政府のお詫び代だったようです。

天子様を大歓迎の東京府民

 一方、天子様をお迎えした東京府民の反応はどうだったのでしょうか?

「主上御東幸(ごとうこう)に付き、東京市中一同へ酒をたまわり十一月六日・七日の間にこれを頂戴し、市中大いに賑わい祭礼の景色なり」

 当時の新聞『もしほ草』が明治元年(1868)11月13日付の記事でこのように伝えています。

 これは “天盃頂戴” と言って、明治天皇から東京府民への振る舞い酒で、天皇が東京に足を踏み入れた時に行われました。東京1592町に酒2553樽と1人1合とも言われる酒と、それを注ぐ瓶子を配り天皇歓迎のムードを盛り立てます。また、この両日はそれぞれの店も仕事を休み、山車を繰り出し屋台が店を並べ、とすっかりお祭り気分です。

 これは東京遷都に伴い、庶民の眼をどうでも明治天皇に向けさせる新政府の方策でした。もともと将軍様のお膝元を自認する江戸っ子は、遠い京都の天子様より身近な将軍様の方ばかり向いていましたし、ありがたみも感じていました。時代が変わり、幕府は滅んで天子様を頂点に頂く新生日本の門出の時に、その中心地である東京が将軍様や江戸時代を懐かしんでいては困るのです。

 ともあれ、この酒の大盤振る舞いと山車や屋台を動員してのお祭り気分は、賑やか大好きの江戸っ子の心を捉え、東京は大いに盛り上がります。そして諸外国も東京に据えられた “みかど政府” を、新しい日本の中央政府として認知し始めるのです。

おわりに

 このように御所の中に閉じ込められていた明治天皇ですが、その後は打って変わったように全国を行幸、中でも明治5年(1872)の九州・西国巡幸に始まり、同9年の東北・北海道巡幸、同11年の北陸・東海道巡幸、同13年の甲州・東山道巡幸、同14年の山形・秋田・北海道巡幸、同18年の山口・広島・岡山巡幸は六大巡幸と呼ばれています。

 これで明治天皇はほぼ日本全国を回られたことになります。


【主な参考文献】
  • 御厨貴/監修『ビジュアル明治クロニクル』世界文化社/2012年
  • 佐々木克『江戸が東京になった日』講談社/2001年
  • 参議院法制局HP 「首都を定める法律」

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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