「三方ヶ原の戦い」で討死した武田側の武将はいたのか?
- 2024/07/23
元亀3年(1573年)12月22日、今の静岡県浜松市で行われた徳川&織田連合軍と武田軍による戦いが「三方ヶ原の戦い」です。
この戦いで徳川側は鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、本多忠真、田中義綱、中根正照、青木貞治、夏目吉信、鈴木久三郎といった家康の家臣や、織田の平手汎秀といった名のある武将たちが多く討死し、文字通り大敗北を喫しました。(大河ドラマ『どうする家康』では、甲本雅裕さんが演じる夏目吉信の討死シーンが印象的でした)
一方で、武田側で討死した武将はいたのでしょうか? 答えは「Yes」です。しかし、討死した武将は1名のみです。その名は “小幡又八郎昌定”。そこで今回は、武田側にとって唯一討死した武将 “小幡又八郎昌定”について紹介します。
この戦いで徳川側は鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、本多忠真、田中義綱、中根正照、青木貞治、夏目吉信、鈴木久三郎といった家康の家臣や、織田の平手汎秀といった名のある武将たちが多く討死し、文字通り大敗北を喫しました。(大河ドラマ『どうする家康』では、甲本雅裕さんが演じる夏目吉信の討死シーンが印象的でした)
一方で、武田側で討死した武将はいたのでしょうか? 答えは「Yes」です。しかし、討死した武将は1名のみです。その名は “小幡又八郎昌定”。そこで今回は、武田側にとって唯一討死した武将 “小幡又八郎昌定”について紹介します。
小幡又八郎昌定とは
小幡又八郎昌定は、群馬県甘楽郡を本貫の地とする国人領主・国峰小幡家 の当主(※三方ヶ原の戦い時)である上総介信実(一般的には信貞の名の方が有名か)の異母弟です。ここで注意していただきたいのは、武田の小幡家と聞いて、小幡昌盛(武田二十四将の一人)や小幡景憲を思い出す方が少なからずいると思いますが、この小幡家(甲州小幡家)と、国峰小幡家は全く別家系(血縁無し)であることです。ちなみに、小幡景憲は『甲陽軍鑑』の編者として知られていますね。
さて、話を国峰小幡家に戻します。
国峰小幡家は長尾、白倉、大石の各家とともに関東管領・山内上杉氏の四家老を担っていた名家でした。そんな国峰小幡家が武田家の指揮下に入ったのは尾張守憲重の時、天文22年(1553年)といわれています。そして、尾張守憲重の子が上総介信実や今回の主役である昌定になります。
主力クラスの戦力だった国峰小幡家
この国峰小幡家は『甲陽軍鑑』によると、「(赤備惣騎馬千騎之内)五百騎」
また、上総介信実は「同御先衆として侍千騎」を
「組なしにて、御先ヲいたす」
(二交代にして五百騎ずつ従軍させていた)
と書かれています。つまり国峰小幡家は「赤備えを身に纏って千騎の武者を率いた」という、間違いなく武田軍の中でも主力クラスの戦力だったわけです。
ちなみに武田の赤備えはもともと飯富虎昌(おぶ とらまさ)の部隊が担っていましたが、永禄8年(1565)に信玄の長男である武田義信と、その傅役だった虎昌の謀叛が露呈し、虎昌は処刑、飯富家は断絶となります。その後、〝虎昌の弟(甥ともいわれる)である山県昌景が家臣団を引き取り、赤備えも継承された〟と『甲陽軍鑑』には書かれています。そしてこの時に、国峰小幡家も赤備え化したと思われます。
なお、『甲陽軍鑑』の信憑性が低いことは皆さんご存知だと思うので、国峰小幡家が上記の戦力を本当に有していたかは疑問が残ります。しかし、国峰小幡家領には牧場が多く、馬の生産飼育に問題はありませんでした。
また、赤備えに必要な朱漆づくりに不可欠な辰砂(硫黄と水銀の化合物)も領内で産出していて、千騎の赤備えを揃えるのに十分な条件が整っていました。
家康:「小幡の赤備えは少しも他の色がなく、具足旗指はもちろん、鞍、鎧や馬の鞭まで赤かったと聞いている。そのようにせよ。」
徳川家康ものちに井伊直政(武田滅亡後、武田家旧臣を引き取り赤備え部隊を継承)へ命令したという話まであります。やはり、国峰小幡家は武田軍にとって重要な戦力だったことは間違いなさそうですね。
「三方ヶ原の戦い」における国峰小幡家の動き
徳川家康の三大危機の一つといわれる「三方ヶ原の戦い」ですが、実際の戦場や各部隊の配置、戦闘状況など詳しいことがわかっていない出来事でもあります。『甲陽軍鑑』や『三河物語』『信長公記』など、当時の戦闘を記した文献は多数ありますが、戦場の地形や戦況の推移の記述が異なっていたり、あやふやだったりするからです。
それでも、様々な文献から「三方ヶ原の戦い」当日の国峰小幡家の動きと小幡又八郎昌定が討死する様子を追っていきましょう。
配置場所
魚鱗の陣で構える武田軍において、信実率いる国峰小幡本隊(昌定も従軍)は信玄本陣から見て左前、内藤隊の背後に配置されます。
戦闘状況
武田軍小山田隊の投石によって合戦の火蓋が切られたという話があります。実際はどうだったか定かではありませんが、徳川・織田連合軍は数で勝る信玄の術中にハマり、野戦を強いられたことは事実です。序盤、徳川・織田連合軍は徳川先鋒隊の活躍で戦いを優勢に進めます。武田軍の七手の先陣(山県、内藤、小山田、小幡、真田、高坂、馬場)は切り崩され後退します。しかし、勝頼を中心とする二陣が押し戻し、甘利・米倉の別動隊が徳川・織田連合軍の右翼背後へ横槍を入れたことで状況は一変。わずか2時間ほどの戦いは武田軍大勝利で終わります。
武田別動隊は小幡・真田隊だった?
『甲陽軍鑑』に書かれた武田軍の陣立表には「小幡勢二百五十騎と真田勢五十騎は “警固” 」と書かれています。警固とは、それぞれの本隊とは別任務の信玄直属で働く部隊のことです。また、合戦後に小幡昌高(憲重の三男、昌定の兄)は信玄から感状を貰っていることから、戦況に大きな影響を与えた働き(それが横槍?)をしたはずです。そうなると、横槍を入れた別動隊とは小幡・真田隊かもしれません。
昌定の討死
残念なことに、今回の主役である昌定が、どのように討死したかを伝える資料は存在しません。多分、徳川勢に切り崩された際に負傷したと思われます。『浜松御在城記』には、
「此合戦ノ時、甲州方小幡尾張守重定入道新龍斎カ四男又八郎昌定討死、三方ヶ原ニ塚ヲ築、卒塔婆を立候…」
と書かれていることから、敵に討取られたというより負傷後に武田陣中で亡くなり、塚(墓)をつくって葬られたと考えられます。
昌定が葬られた「オンコロ様」
上記の通り、昌定が葬られたとされる場所には卒塔婆(宝篋印塔)が建てられ、松が植えられます。そして、地元では「オンコロ様」と呼ばれ、手厚く祀られます。しかし近年、周辺は開墾により耕地&整地され、オンコロ様は取り壊されてしまい、現在はその跡形もありません。辛うじて宝篋印塔は中川町にある妙功庵境内へ移されますが、関東大地震の時に倒壊して川に転落してしまったそうです。ただ一つ残った笠の部分はその後、同町の中川寺に移されて現在も見ることができます。
しかし、元々オンコロ様があった場所(=昌定が葬られた地)は何処なのでしょうか?
「オンコロ様」 跡地を探す
今回、このコラムを書くにあたり、参考とさせていただいた岩井良平氏の『三方原の戦と小幡赤武者隊』に記載されている内容を元に、オンコロ様の跡地を探してみました。実際に現地(古戦場跡とされる三方原台地北部)に行ってみましたが、全く分かりませんでした。結局、地元の方々のご協力のおかげでようやく判明した場所は現在は畑となっています。
何も痕跡が無く、本当にただの畑です。しかし、ここに昌定が葬られていたと考えると特別な場所に見えてくるから不思議ですね。
最後に
穴山、山県、馬場、小山田、真田といった他の家臣団に比べると、現在の知名度は低いかもしれませんが、赤備えの騎馬軍団で活躍した国峰小幡家は間違いなく武田軍の主力として敵に脅威を与えたでしょう。また、未だ不明な点が多い「三方ヶ原の戦い」において、武田軍で唯一討死した武将が赤備えの小幡又八郎昌定であることは間違いありません。
そんな彼の墳墓といわれるオンコロ様。こういった史跡が今後も風化されることなく、いつまでも記憶と記録に残ると良いですね。
【主な参考文献】
- 『三方原の戦と小幡赤武者隊』岩井良平 文芸社(2008年)
- 『検証・三方ヶ原合戦』小楠和正 静岡新聞社(2000年)
- 『三方ヶ原の戦い』小和田哲男 学研(2000年)
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄