本願寺勢力(一向宗)はなぜ戦国大名たちに恐れられたのか?
- 2019/10/24
一向一揆と戦国大名の戦いというと、織田信長と石山本願寺の「石山合戦」が有名ですが、本願寺と一緒くたに語られる「一向宗」は支配者層から武力蜂起を引き起こす教団とみなされ、警戒された勢力でした。戦国大名たちは、なぜ一向宗を恐れたのでしょうか。
一向宗は危険な宗派とみなされていた?
冒頭で取り上げた石山合戦に限らず、それ以前から本願寺派は各地の領主たちと争っていました。越前では本願寺派の寺院が領主の朝倉氏によって破却され、関東の北条氏の領内では一向宗が禁制になっています。また、享禄4年(1531)からはじまった「享禄・天文の乱」は、蓮如(浄土真宗本願寺宗門)による教団改革の内紛を発端として細川氏・畠山氏らとの戦いも勃発しましたが、このとき同じく北条氏の領内にて三浦郡の一向宗が鎌倉光明寺の檀家として統制されています。
さらに遠く九州でも、肥後の相良氏、薩摩の島津氏によって禁止されていました。それはひとえに、一向宗が危険な宗教と考えられていたためですが、なぜ戦国の支配層は一向宗を危険視していたのか。それは、単に「浄土真宗の教義が警戒される内容だったから」というだけではなさそうです。
そもそも一向宗とは?
確かに、浄土真宗・浄土宗は親鸞・法然の時代から支配層によって警戒されていた過去があります。延暦寺や興福寺から非難された上に、朝廷から弾圧を受けたこともありました。ですが、こと戦国時代においては教義を理由に警戒されたのではないようです。親鸞の浄土真宗と本願寺派
浄土真宗、本願寺派、一向宗……。これらは同じものとして語られる名前ですが、実のところそれぞれに違いがあります。まずは「浄土真宗」ですが、これは教科書でも習った ”親鸞” を開祖とする宗派です。
※参考:浄土真宗本願寺派の歴代宗主(顕如以降は省略)
- 親鸞(宗祖)
- 如信(2代)
- 覚如(3代)
- 善如(4代)
- 綽如(5代)
- 巧如(6代)
- 存如(7代)
- 蓮如(8代)
- 実如(9代)
- 証如(10代)
- 顕如 (11代)
一方、「本願寺派」というのは親鸞の墓所である大谷廟堂を発祥し、親鸞の血をつなぐ曾孫の覚如が開創した宗派です。現在では浄土真宗は宗派がいくつかあり、本願寺派はその中でも信者数が最大となっています。なので浄土真宗といえば本願寺派、と思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。
浄土真宗の教義とは異なる独自の信仰をもつ一向宗門徒
さて、ところで浄土真宗と一向宗とは一体どこでつながるのでしょうか。これが実は別ものなのです。もちろん、本願寺教団が「一向宗」と呼ばれた事実はあるのですが、これは俗称であり、戦国時代当時の本願寺教団は一向宗と自称することをよく思ってはいませんでした。
一向宗とは、必ずしも本願寺教団を指すものではありませんでした。鎌倉時代の一向俊聖を祖とする浄土宗の宗派「一向宗」、また鎌倉時代の一遍を開祖とする「時宗」も一向宗と呼ばれます。
本当ならば一向俊聖によって開かれた一向宗だけが正式な一向宗なのですが、このようにいろんな宗派がごちゃまぜに「一向宗」としてひとまとめに語られたのです。
そして困ったことに、一向宗を自称する門徒は、浄土真宗の教義とは異なる独自の信仰の傾向を持っていました。
たとえば、「造悪無碍(ぞうあくむげ)」という考えですが、一向宗は「阿弥陀仏は悪人も救済してくれるので、悪行は往生浄土の妨げにはならない。真の信心を持つ者は悪行を行うことを恐れてはならない」という考えです。
これは異議であり、当然宗祖である親鸞も、戦国期の8代目蓮如だって批判したものでした。しかし、一向宗徒の間ではこういう考えが根付いていたのです。
一向宗は浄土真宗から派生したものではない
この問題となった一向宗は、そもそも浄土真宗から派生したものではないと考えられます。つまり、一向宗徒は浄土真宗の教えから一向宗に分かれていったのではなく、もともと一向宗を信じていた人々が浄土真宗に帰依し、勝手に「自分たちは一向宗だ」と頑なに信じていたのです。一向宗の「一向」とは、「一向専念無量寿仏(いっこうせんねんむりょうじゅぶつ)」からきています。親鸞はこれを強調して教えたので、人々は自分たちの宗派は「一向宗だ」と考えたのでした。
蓮如は北陸に伝道した際に「一向宗を自称してはならない」と説いたのですが、彼らは一向宗だと信じて疑わなかった。そんな人々が、加賀一向一揆を起こしたのです。
怪しげな宗教と考えられていた
さて、一向宗が純粋な浄土真宗本願寺派のみで形成されていたのではないことを確認してきましたが、実はそれだけではありませんでした。浄土真宗は規模が大きいだけあって、「これは浄土真宗といえるんだろうか?」というようなものまで入り混じっていました。山伏・陰陽師・巫女・琵琶法師……
時代は下って近世の例ですが、薩摩の一向宗の取り締まりに関する史料によれば、一向宗として取り締まられた者の中には、山伏・陰陽師・巫女・念仏僧・平家琵琶法師・旅人・商人などがいたそうです。彼らに共通するのは、病人のいる家に入って祈祷を行い、一向宗に勧誘したことです。並べた名前から想像できると思いますが、いずれも出自の怪しい、どこから来たのかわからないような怪しげな存在であろうことがわかるでしょう。念仏によって病気平癒を祈祷するなどは、親鸞の浄土真宗からは程遠いものです。
ほかにも、霊を降ろして憑依させることで占いをするとか、霊魂をあやつるような怪しげな呪術は僧というよりも霊能者に近い存在です。加持祈祷にしろ、浄土真宗というより平安時代に隆盛した真言宗・天台宗などの密教のようです。
このような、おおよそ浄土真宗からかけ離れた怪しげなものが、人々の崇敬を集めていたことが問題です。蓮如や一遍のあずかり知らぬところで、人々はこういう霊的なものを一向宗(真宗含む)と信じ、期待していたのです。
戦国大名たちはいかがわしい法力の求心力を恐れた
不思議な力というのは人々の注目を集めるものですが、一向宗の拡大にそれが一役買っていたのだと考えられます。「難しいことはわからないけどとにかく念仏で病気が治る」とか、そんな民衆の生活によりなじみ深い欲求・需要から一向宗への期待が高まり、裾野を広げていったのでしょう。
そして、この民衆の求心力を恐れたのが戦国大名のような支配層でした。素朴で土俗的な、いかがわしい呪力を使って一向宗は各地で民衆を組織している。戦国大名たちから見た本願寺勢力(一向宗)とは、敵になりうる軍勢を抱えた一大組織であり、だからこそ警戒したのです。
また、本願寺派のトップが「親鸞の血筋」という権威を持ち、それゆえに一向宗徒が結集したのも、支配層にとっては警戒すべき点だったでしょう。本願寺とは、ここまで紹介してきたような集団を抱える首領とみなされていたでしょう。
戦国大名たちは警戒する一方で、本願寺といい関係を築くことができればうまく民衆を管理することもできたわけで、そういう意味でも付き合い方に気を付けなければならない相手だったでしょう。
【参考文献】
- 神田千里『信長と石山合戦 中世の信仰と一揆』(吉川弘文館、2008年)
- 神田千里『戦国と宗教』(岩波書店、2016年)
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