藤原道隆の長女「藤原定子」 出家後も愛された一条天皇の皇后
- 2024/01/19
藤原定子(ふじわらのさだこ、977~1000年)は藤原道長の兄・道隆の長女で、中宮、皇后として一条天皇に愛され、また、華やかな文化サロンも形成しました。
清少納言の言葉通りなら、『枕草子』を書かせたのも定子です。しかし、父・道隆死後、一家の隆盛は暗転し、定子は出家します。それでも一条天皇の愛は深く、1男2女を出産。聡明で快活な才女でしたが、24歳の若さで他界しました。
悲劇のヒロインの生涯をみていきます。
清少納言の言葉通りなら、『枕草子』を書かせたのも定子です。しかし、父・道隆死後、一家の隆盛は暗転し、定子は出家します。それでも一条天皇の愛は深く、1男2女を出産。聡明で快活な才女でしたが、24歳の若さで他界しました。
悲劇のヒロインの生涯をみていきます。
一条天皇の中宮に そして清少納言の登用
父・藤原道隆は兼家の長男。兼家は一条天皇の即位に伴い摂政に就き、兼家の辞任後は道隆が政権を握ります。その期間は正暦元年(990)5月の関白、次いで摂政就任から長徳元年(995)4月の死去まで5年間。道隆は、父・兼家と弟・道長の間に繁栄したことから「中関白」と呼ばれます。母・貴子「百人一首」の歌人、教養人
定子の母は道隆正室の高階貴子。3男4女の母で、定子の同母兄弟は道隆三男・伊周(これちか)、四男・隆家らがいます。貴子は天皇の女性秘書「内侍」を務めたキャリアウーマン。和歌も得意で、当時の女性としては珍しく、漢詩の素養もありました。「百人一首」54番の「儀同三司母」は貴子のことです。「儀同三司」は三司(太政大臣、左大臣、右大臣)と儀礼的に同格という意味で、内大臣だった伊周を指します。
前代未聞「四后並立」 道隆の強引手法
正暦元年(990)、14歳の定子は11歳の一条天皇に入内(=妻として内裏に入る)。女御となり、10月には中宮に。女御は何人かいる天皇の妻で、中宮は女御の中から選ばれ、ただ一人の天皇の正室・皇后です。 ところが、この時、別の皇后がいました。一条天皇の妻は定子だけなのに、別に皇后がいるというのは不思議な話ですが、先々代の円融天皇の皇后・藤原遵子(のぶこ)が「皇后」の称号を維持していたのです。
このとき「三后」に3人の女性がいました。
- 太皇太后 昌子内親王(3代前の冷泉天皇の皇后)
- 皇太后 藤原詮子(2代前の円融天皇の女御。一条天皇の母)
- 皇后 藤原遵子(円融天皇の皇后)
本来、太皇太后は天皇の祖母、皇太后は天皇の母ですが、政治力で三后の地位が決まることもあります。円融天皇のとき、女御の中から遵子が皇后になりますが、一条天皇が即位すると、その母・詮子(あきこ)が皇太后となり、遵子は皇后のままだったのです。
この状況で道隆は同じ意味である「皇后」と「中宮」を呼び分け、定子を中宮とします。「三后」に空席のない中、皇后とは別に中宮が立后。前代未聞の「四后並立」に波紋が広がりました。
『枕草子』定子の聡明さ、明るさを礼賛
定子17歳の正暦4年(993)頃、清少納言が女房として仕え始めます。清少納言の生年は不詳ですが、28歳くらいとみられます。文才を買われての採用ですが、定子自身、母譲りの教養がありました。清少納言の『枕草子』に名場面があります。
冬の朝、定子が清少納言に問いかけます。
定子:「少納言よ、香炉峰の雪はどうでしょう」
香炉峰は中国の名勝・廬山(ろざん)の峰の一つ。詩人・白居易が「香炉峰の雪は簾(すだれ)を巻き上げて見る」と詠んだ詩の一節になぞらえた定子の思いを、とっさに理解した清少納言が外の雪景色が見えるよう御簾(みす)を上げます。清少納言の機転もさることながら、定子の聡明さや才気が讃えられているのです。
『枕草子』を書かせたのは定子
『枕草子』誕生にも定子が大きく関わっています。兄・伊周から草子(白紙のノート)を贈られた定子が清少納言に相談します。紙は当時、貴重品でした。定子:「これに何を書きましょうか。帝(一条天皇)は『史記』を書写されるそうですが」
少納言:「枕にするのがよろしいと思います」
定子:「それなら、あなたに上げましょう」
清少納言の言葉の意味が「文才がないので、分厚い紙の束は枕にしたならない」とするなら相当な嫌みですが、枕元の備忘録とか、歌枕とかいろいろな解釈があります。
父の死で暗転 兄弟失脚の中、皇女出産
長徳元年(995)、道隆が43歳で死去。疫病流行で多くの貴族が病死し、残った高官の中では定子の兄・伊周が内大臣で最も高い官職でしたが、権大納言の道長が内覧として関白に近い権限を得ます。道長は右大臣、翌年に左大臣と昇進し、伊周を追い抜きます。「長徳の変」同母兄弟が失脚
伊周と道長の関係が緊迫する中、長徳2年(996)1月16日、藤原為光邸で、伊周、隆家兄弟と花山法皇の家来同士が乱闘。死者が出る騒ぎとなります。『栄花物語』は、為光三女の愛人・伊周が、為光四女を愛人とした花山法皇の行動を誤解し、相談を受けた隆家が法皇に矢を射かけて脅したとしています。伊周、隆家による花山法皇襲撃事件です。事件をきっかけに伊周の側近宅が家宅捜索され、4月24日、伊周、隆家の左遷が決定。伊周は大宰権帥、隆家は出雲権守に。地方の官職への人事異動でが、官職に伴う権限は一切なく、実質的な流罪です。
住居焼失、母の死…不幸が続く
騒動の中、内裏を出た定子は二条北宮(二条宮)に住み、左遷決定後も出頭しない伊周、隆家を匿います。定子はスキャンダルの渦中に置かれ、二条大路は見物人で騒がしくなります。長徳2年(996)5月1日、二条北宮も強制捜査され、その日、定子は自ら髪を切って出家。夏には二条北宮が火災で焼け、定子は牛車ではなく、家来の武士に抱えられて避難するありさま。10月には母・貴子が病死と不幸が重なりました。
出家後も親密 彰子入内時に皇子誕生
定子が出家しても一条天皇の愛は不変でした。長徳2年(996)12月、第1皇女・修子内親王を出産。一条天皇の第1子です。長徳3年(997)6月、定子は宮中に呼び戻されますが、出家した定子の居所は内裏ではなく、中宮職の役所内。「職の御曹司」でした。出家した中宮の出産と出戻りに貴族たちは大いに驚き、批判も上がりました。
有力貴族の娘が続々入内
道隆存命中は定子が一条天皇のただ一人の妻でしたが、これも変化。有力貴族が次々と娘を送り込みます。長徳2年(996)以降、藤原公季の長女・義子、藤原顕光の長女・元子、藤原道兼の長女・尊子が入内し、女御となります。なお、長徳3年(997)には大赦があり、伊周、隆家は京に戻りました。しかし、もはや道長のライバルではありません。
道長の娘・彰子が女御に その当日…
長保元年(999)11月7日、定子は一条天皇の第1皇子・敦康親王を産みます。中級貴族・平生昌(たいらのなりまさ)宅でのひっそりとした出産。同日、道長の長女で12歳の彰子が一条天皇の女御として宣下(天皇の命令を伝える公文書の発表)され、公卿たちはその行事に出席し、明暗が分かれました。しかし、敦康親王は中宮を母とする第1皇子。有力な皇太子候補です。「一帝二后」ライバル彰子の立后
長保2年(1000)2月25日、彰子が中宮となり、定子は皇后となります。道長は「皇后」と「中宮」を呼び分けた兄・道隆の手法を使い、彰子を天皇の正室としたのです。しかも、天皇の正室が2人という「一帝二后」。前代未聞の事態です。
定子は出家していたため、中宮としての神事ができないという事情があり、道長はそこを突いて側近や姉で一条天皇の母・詮子(あきこ)を使い、一条天皇を説得しました。
愛児・敦康親王残し、24歳で他界
定子は長保2年(1000)12月15日、第2皇女、媄子内親王を出産しますが、翌日崩御。24歳でした。「一帝二后」の異常事態は1年足らずで解消されます。彰子が敦康親王の養母に
長保3年(1001)8月、彰子が定子の遺児・敦康親王の養母となります。定子の同母妹・御匣(みくしげ)殿も養育に当たりますが、御匣殿は長保4年(1002)に死去。彰子は寛弘5年(1008)に敦成(あつひら)親王(後一条天皇)、寛弘6年(1009)に敦良親王(後朱雀天皇)を産みました。それでも、一条天皇の思いを受け、敦康親王を皇位につける意思がありましたが、寛弘8年(1011)、皇太子となったのは敦成親王。中宮が産んだ第1皇子が皇太子になれないのは異例で、一条天皇や彰子、そして亡き定子の願いは道長の政治力の前では無力でした。敦康親王は寛仁2年(1018)、20歳の若さで早世します。
定子の辞世の句
定子の辞世の句と一条天皇の返歌です。定子:「煙りとも雲ともならぬ身なりとも 草葉の露をそれと眺めよ」
(訳・土葬なので煙や雲になって見えることはありませんが、草葉の陰の露で私を偲んでください)
(訳・土葬なので煙や雲になって見えることはありませんが、草葉の陰の露で私を偲んでください)
一条:「野辺までに心ばかりは通へども わが行幸とも知らずやあるらん」
(訳・野辺送りまで心だけは行き通うが、亡き君は私の行幸とは気付かないのだろうか)
(訳・野辺送りまで心だけは行き通うが、亡き君は私の行幸とは気付かないのだろうか)
おわりに
定子は悲運のヒロインでした。清少納言は中関白家の凋落、定子の悲運を間近に見ていますが、『枕草子』にはその暗い面を書いていません。生前は兄弟の不祥事、出家の身での懐妊、出家後の宮中出戻りなど貴族たちからバッシングされた定子ですが、『枕草子』に描かれた姿は明るく聡明で、死後は同情を呼びます。最も同情した一人がライバルの彰子です。道長にとって、死後も同情される定子はその兄・伊周以上に脅威だったかもしれません。
【主な参考文献】
- 倉本一宏『藤原伊周・隆家』(ミネルヴァ書房、2017年)
- 倉本一宏『一条天皇』(吉川弘文館、2003年)
- 服藤早苗『藤原彰子』(吉川弘文館、2019年)
- 松尾聰、永井和子校注・訳『枕草子』(小学館、1997年)
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