黒田氏を支えた播磨出身の土豪たち 「黒田二十四騎」と「黒田八虎」

黒田八虎と黒田二十四騎とは

 黒田氏を語る際に忘れてはならないのが、「黒田八虎」や「黒田二十四騎」と称される家臣団の存在である。このように家臣に「○○騎」、「○○将」と○○部分に数字を当てはめるのは、ほかの戦国大名にも見られ、勢揃いした画像が残っている。

 ところで、「黒田八虎」や「黒田二十四騎」の面々とは、いったいいかなる者たちなのであろうか。

氏名生没年出身備考
○黒田利高1554~1596播磨黒田官兵衛の弟
○黒田利則1561~1612播磨黒田官兵衛の異母弟
○黒田直之1564~1609播磨黒田官兵衛の異母弟
○栗山利安1551~1631播磨
○井上之房1555~1634播磨
○母里友信1556~1615播磨
○後藤基次1558~1615播磨
○黒田一成1571~1656摂津
益田宗清1543~1611播磨
久野重勝1545~1592播磨
吉田長利1547~1623播磨
三宅家義1551~1623播磨
衣笠景延1553~1631播磨
小河伸章1554〜1593播磨
桐山信行1554~1625播磨
毛屋武久1554~1628近江
堀 正勝1557~1636播磨
原 種良1557~1639豊前
野口一成1559~1643播磨
野村祐勝1560~1597播磨
竹森次真1560~1621播磨
村田吉次1565~1621播磨
菅 忠利1567~1625播磨
林 直利1569~1629信濃
〔表〕黒田二十四騎・黒田八虎一覧

 上記の表の○印の8名は、「黒田二十四騎」のうちで、特に精鋭とされた「黒田八虎」の面々である。冒頭から3名は、黒田家の血筋を引くものであり、残りの5名は重臣クラスである。ただし、後藤基次のように、途中で黒田家を去った者もいる。この黒田八虎についても、何らかの契機に後世に至って創作されたと考えてよいであろう。

 残りの面々の出身地を確認すると、圧倒的に多いのが播磨である。これまでの説では、黒田家は近江黒田を発祥の地とし、備前福岡に移ったと指摘されてきた。しかし、こうした主要な家臣団の中に、備前出身者がいないのは、いささか不審である。やはり、黒田家はもともと播磨南部に拠点を持ち、こうした在地土豪層を着々と配下に収めたと考えられる。次に、一次史料で確認できる家臣を確認することにしよう。

播磨に基盤を持った土豪たち① -栗山氏-

 「黒田二十四騎」の中には、その出自があまりわからない者もいるが、たしかな史料によって存在を確認できる者もいる。その中で、栗山氏と母里氏を取り上げてみることにしよう。

 栗山氏は、もともと飾磨郡手柄村栗山(兵庫県姫路市栗山町)を名字の地とし、のちに加東郡東条谷(兵庫県加東市)に移ったとされている。栗山家には、「栗山文書」が残っており、その由来をある程度たどることが可能である(以下、すべて「栗山文書」による)。

 栗山氏が史料にあらわれるのは、おおむね15世紀後半である。当時、東条谷には依藤氏が勢力を誇っており、栗山氏はその配下にあったと考えられ、栗山三郎左衛門、同大炊助の名前を確認することができる。

 注目すべきは、永正元年2月13日付で栗山備後守行久が残した譲状である。この譲状で行久は、子と思しき福松丸に対して、①飾東郡芝原荘名田畠・同買地以下、②印達南条延弘名屋敷分七反十代、という2ヵ所の所領を譲っている。

 ともに姫路市内に所在することから、この頃に栗山氏は同地に拠点を保持していたことがうかがえる。また、「備後守」は代々栗山氏が名乗った官途であり、栗山備後守利安も用いた。こうしたことから、栗山氏は戦国期に姫路へと拠点を移し、何らかの契機に黒田氏に従うようになったと考えられる。

播磨に基盤を持った土豪たち② -母里氏-

 母里氏も、史料上にあらわれる貴重な黒田氏の家臣である。母里氏は、播磨国加古郡母里(兵庫県加古郡稲美町)を名字の地とし、のちに姫路市内に移り住んだと考えられる。

 母里氏の名前は、「正明寺文書」に散見する。正明寺は、姫路市五軒邸に所在する天台宗寺院である。母里氏が史料にあらわれるのは、栗山氏と同じく15世紀後半頃で、母里秀友、同満友の名を確認できる。ただ、残存する史料は、寄進状と売券で占められるという大きな特徴がある。おそらく母里氏は地主として土地を集積する、富裕層に属したと考えられる。「正明寺文書」には、黒田官兵衛の発給文書も確認できるので、両者は何らかの縁があって主従関係を結んだと推測される。

 こうして考えてみると、黒田家に従った播磨出身の土豪層は、姫路を中心に勢力基盤を築いた土豪層だったと考えられる。彼ら「黒田二十四騎」と称された土豪たちは、黒田家の発展とともに重臣へ取り立てられた。

 もともと黒田氏は現在の西播磨に基盤を持った土豪であり、土地集積を行いながら発展を遂げたと考えられる。その間、周辺の土豪層を従え、やがて小寺氏の配下に加わったのであろう。

母里太兵衛友信の逸話

 母里太兵衛友信は福岡藩の藩祖である黒田官兵衛、初代藩主の黒田長政の配下にあって、戦場で大いに活躍した。母里氏といえば、「酒は呑め呑め 呑むならば 日本一のこの槍を呑み取るほどに呑むならば これぞ真の黒田武士」という歌詞の「黒田節」があまりに有名である。かつては、酒席でよく歌われたものである。

JR博多駅前にある母里太兵衛像(黒田節像)
JR博多駅前にある母里太兵衛像(黒田節像)

 「黒田節」の民謡にまつわる逸話を次に紹介しておこう。

 文禄5年(1596)正月、長政の名代として、友信は京都伏見にある福島正則のに挨拶に行くことになった。このとき、友信は正則より酒を勧められたが、いったんは固辞した。友信は大酒豪だったが、名代という手前もあって酒を辞退したのである。

 辞退する友信に対して、正則は「飲み干せたならば好きな褒美を取らせる」と強く勧める始末だった。挙句の果てに正則は「黒田武士は酒に弱い、酔えば何の役にも立たない」と黒田家を侮辱するような発言をしたという。ここまで固辞した友信だったが、この言葉を聞いては黙っていられない。正則の勧めに応じることになった。

 友信は大盃の酒を一気に数杯呑み干すと、褒美として正則が豊臣秀吉から拝領した名槍「日本号」を所望したのである。正則は「武士に二言は無い」と言うと、約束どおり「日本号」を潔く差し出した。これが民謡「黒田節」の背景であり、黒田武士の男意気を示すエピソードとして広く知られるようになった。なお、名槍「日本号」は、現在、福岡市博物館に所蔵されている。

 その後、太兵衛は出世を遂げ、直方の鷹取城1万8千石の城主、次いで嘉穂郡の大隈益富城城主を経て、元和元年(1615)に60歳で病没した。墓所は、福岡県大隈町の麟翁寺にある。

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  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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