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鳥居元忠の忠義は江戸時代の鳥居家を何度も救った!

 生涯をかけて徳川家康に尽くしてきた忠臣・鳥居元忠。元忠を祖とする鳥居家は、江戸時代に何度もお家取り潰しの危機にさらされましたが、その都度「元忠の忠義」のおかげで危機を脱し、明治維新まで家名を残すことができました。

鳥居元忠の命がけの忠義とは

 慶長5年(1600)、徳川家康は会津の上杉討伐の軍を挙げた際、伏見城の留守居を元忠に命じました。家康が出陣すれば、必ず石田三成ら反徳川勢力が決起し、伏見城は真っ先にターゲットになるだろう・・・それを承知で元忠は引き受けたのです。

 できるだけ多くの兵を従軍させるため、元忠は少数の兵力のみで戦う決意をします。出陣前、家康と元忠は昔語りをしながら別れの盃を交わしたそうです。

 反徳川勢力の大軍に対し、伏見城の元忠らは勇猛果敢に戦い抜きましたが、最後は落城して討ち死にしました。家康は、徳川家のため、天下取りのために「捨て石」となってくれた元忠の忠義に感謝し、大名・鳥居家を厚遇したのでした。

鳥居家の危機① 鳥居忠恒の後継者問題

 元忠の孫、鳥居忠恒は出羽山形藩22万石の大名となっていました。ただ、正室との間に嫡子が生まれず、後継者問題も浮上していました。

 忠恒には異母弟の忠春がいましたが、忠春の母親とは折り合いが悪かったため、忠春を養子に迎えませんでした。忠恒は、同母弟で新庄藩に養子として入っていた戸沢定盛に家督を譲ると遺言し、亡くなってしまいました。
当時は末期養子が禁止されていたため、他の大名家の例にならって鳥居家も無嗣断絶となるところでした。

 ここで効力を発揮したのが「元忠の忠義」でした。伏見城の戦いでの元忠の功績は絶大だったとし、忠春には新たに信濃高遠藩3万石が与えられることになったのです。

鳥居家の危機② 暴君と呼ばれた鳥居忠春

 高遠藩に入った鳥居忠春は、鳥居家の所領が約8分の1になってしまったため、何としても取り戻したいと考え、江戸の警備や江戸城の石垣修理などの幕府御用を積極的に引き受けました。

 その結果、高遠藩の財政事情は悪化の一途をたどり、過酷な年貢を課したために領民が他国へ逃亡するという悪循環を引き起こしました。また忠春は、藩政を正すよう戒めた重臣を粛清するという暴挙にも出たのです。

 暴君となってしまった忠春は、侍医に斬りつけられるという事件を招き、その傷がもとで亡くなってしまいます。藩内の不祥事による改易も珍しくなかった時代でしたが、この時は嫡子の忠則が後を継いで事なきを得ました。

鳥居家の危機③ 家臣の不祥事で鳥居家断絶か?

 高遠藩を継いだ鳥居忠則でしたが、暗愚との悪評がつきまとった殿様だったようです。それが顕著に出た事件が発生します。

 江戸警備にあたっていた家臣が、事もあろうに勤務中に覗きの罪を犯してしまったのです。当然、家臣は罰せられましたが、藩主の忠則も「監督不行き届き」として閉門を言い渡されてしまいました。

 閉門中に忠則は急死しますが、一説には自害したとも言われています。忠則には忠英という後継ぎがいましたが、幕府は家督相続を認めませんでした。

 ここで、鳥居家の伝家の宝刀「元忠の忠義」が発揮されます。「忠臣の家をお取り潰しにはできない」という幕府の考えによって、忠英は能登下村1万石の大名として再出発することになったのです。

おわりに

 鳥居忠英は正徳2年(1712)に下野壬生藩3万石に加増転封された後、かんぴょう栽培の奨励など藩の基礎を築いた名君として称えられます。

 「元忠の忠義」によって再三のピンチを脱してきた鳥居家は、忠英以降7代にわたって壬生藩主として君臨し、元忠の血脈をつないで明治維新を迎えたのでした。

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  この記事を書いた人
マイケルオズ さん
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

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